実際に内山のデスクには「クマ担」と書かれた小さな幟まで置かれた。
「当時の社会部のメンツでいえば、知床での経験もあって自分が一番クマに詳しかったのは確かなんで、別の人がやって記事が間違った方向に行くよりは、自分がやった方がいいかな、とは思いました」
――間違った方向、とは?
「やっぱりヒグマの記事って、おどろおどろしく書こうと思えばいくらでも書けるし、すごく怖い話になっちゃうんです。そうすると市民感情としては、“絶滅させろ”みたいなことになりかねない。そうならないためには、何が起きているのかを正確に報じて、その原因は何なのかを分析して、どうすればいいのか対策を書く。それを淡々と冷静にやることが大事で、その意味でクマ担結成のタイミングとしてはよかったと思います」
「また人が襲われた」
もっともクマ担だからといって、毎日クマだけを追いかけていればいいわけではない。内山にしても新型コロナウイルス関連など担当分野は多岐に渡っていた。クマ出没の情報が入ったからといって、必ずしもすぐに現場に駆け付けるというわけでもない。
キャップから電話で叩き起こされた日も内山は現場には入らず、本社へと向かった。現場には手の空いている記者が続々と送り込まれていたが、彼らがあげてくる情報をとりまとめて、さらに記事の方向性を定めることは「クマ担」である内山にしかできない仕事だったからだ。
札幌のシンボル、札幌時計台のはす向かいにある北海道新聞札幌本社6階の報道センターに上がってみると、「また人が襲われた」という情報でフロアは大騒ぎになっていた。
被害者は続々と増えていく
その頃、入社6年目(当時)の岩崎志帆はタクシーで札幌市内の取材先へと向かっていた。岩崎は室蘭支社報道部、稚内支局を経て、2020年に本社報道センターに配属され、デジタル版の記事や教育問題などを担当していた。
「東区にクマが出た、という情報は知っていましたが、当時はまだ『クマ担』じゃなかったので、キャップからも『他の取材に行っていいよ』と言われていたんです」
すると途中でまたキャップから電話がかかってきた。
「やっぱごめん! 岩崎も東区入って」
運転手に行き先の変更を告げ、すぐに東区の現場へと入る。現場は1日20万人もの人が利用する札幌駅から直線距離で7、8キロしか離れていない住宅街だった。
早速、住民たちに「クマ見ました?」と聞き込み取材を始めると、「あっちへ走っていった」「こっちの駐車場をウロウロしてた」という証言が集まった。いずれもクマがいたとは信じ難いような場所だったが、周辺を走り回るパトカーのサイレンが、確かにクマがこの場所を通ったことを示していた。
「目撃されてからだいぶ時間が経っているので、出くわすことはないと頭ではわかっていても、やっぱり『ここでクマに会ったらどうしよう』とは考えましたね」
この頃になると最初の犠牲者に続き、やはりゴミ出しに出たところを襲われた80代女性、そして通勤のため地下鉄駅へと向かっていたところを背後から襲われた40代男性と被害者はさらに増えていた。