ベストセラー『盲導犬クイールの一生』(文藝春秋、写真家・秋元良平氏との共著)の著者として知られる石黒氏は、芸能史に特筆されるファン組織「全キャン連」の歴史を知悉する生き証人でもある。
中学校の入学式の日、まだレコードデビューを果たす前のキャンディーズ(伊藤蘭=ラン、藤村美樹=ミキ、田中好子=スー)を人気番組『8時だョ!全員集合』(TBS系)で見て以来、ファンになった石黒氏。
中学校卒業直後の1976年4月1日、地元・石川県の金沢市観光会館でコンサートを鑑賞してからはライブの魅力にはまり、キャンディーズ一色の高校時代に突入した。
「僕にとっては一生、忘れられない言葉があるのです」
「この前ヒットスタジオ見てたら、ランが俺のあげたネックレスしててさ」
石黒氏が青春のワンシーンを回想する。
「星稜高校に通う1年生の夏、地元の小松市にツアー中のキャンディーズがやってきたことがありました。その日は東京からもファンが来ていて、田舎の高校生とは明らかにいでたちが違う、まるで業界人のような長髪の2人組に駅で話しかけられたんです。聞けば、東京にある獨協高校の2年生だという。僕と1つしか変わらないのに、その大人びた様子にまず驚きました。そのうちの1人が『この前ヒットスタジオ見てたら、ランが俺のあげたネックレスしててさ』と言うわけですよ。衝撃でしたね」
東京と地方の歴然とした「格差」を見せつけられ、焦燥に駆られた石黒氏の「キャンディーズ愛」に拍車がかかった。
肉体労働のアルバイトで稼いだ資金をすべて関連活動につぎ込む日々。当時、キャンディーズのファンは“3人を応援する”という基本姿勢はキープしつつも「赤組」(ラン)、「青組」(スー)、「黄組」(ミキ)となんとなく3派に分かれていたが、石黒氏は「赤組」だった。
「全国を追いかけて回る交通費、宿泊費。昼夜2公演なら当然、どちらも見るのでチケット代も倍は必要です。ステージに投げ入れる紙テープは多いときで1公演で100本を消費。これは1本30円で卸売業者から1000本単位で直接買っていました」(石黒氏)
熱狂的なファンが多かったことで知られるキャンディーズだが、1973年のレコードデビュー直後は、それほど注目される存在とは言えなかった。
スーに代わり、ランがセンターに回った5作目のシングル『年下の男の子』(1975年2月)がヒットし、翌年『春一番』がオリコン3位を記録。このあたりから、ファンと一体になった「キャンディーズ現象」が加速し始める。