『評伝クリスチャン・ラッセン 日本に愛された画家』(原田裕規 著)中央公論新社

 最も著名なアーティストはおそらくラッセンだろう。だけどそれは日本限定のことだ。こんな奇妙な立ち位置にいるのはラッセンを除いて他にいない。実際、彼は1997年からの6年間だけで日本全国の約150都市で原画展を開催し約15万人を動員した。ラッセンの名前ときらめく海を駆けるイルカたちを描いた象徴的な画面はどんな現代美術家よりもひろく知られており、お笑いのネタにすらなっている。

 しかし批評や言説を好む美術業界があるにもかかわらず彼の活動の文脈づけはなされなかった。そんなラッセンにまつわる言葉の欠如を一気に埋めるかのように『評伝クリスチャン・ラッセン 日本に愛された画家』は書かれている。彼の生い立ちから絵画制作のあり方、イルカやクジラの歴史的位置付け、そして同世代のアーティストや批評家たちの冷ややかな目線までを克明に描き出している。

 著者はアーティストの原田裕規だ。現代美術の領域を中心に作品制作や展覧会企画、執筆活動を行う彼のキャリアには、その最初期からラッセンの名前が刻まれている。当時武蔵野美術大学の学部生だった原田は、2012年にインテリア・アートとして商業施設などで展示されることの多かったラッセンの版画を現代美術を専門とするギャラリー「CASHI」で展示した(大下裕司との共同企画)。さらに翌年には書籍『ラッセンとは何だったのか?』を編集し、自らもテクストを寄稿して大きな話題を呼ぶ(長らく絶版だったが増補改訂版が2月末に発売予定)。そうして原田は複数のアーティストとの対比から世代や専門性を異にする執筆陣による批評の機会までを設けることで、ラッセンの名を消費することなく、彼に美術史的かつ文化論的な位置付けを与えてきた。

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 そんなラッセン専門家である原田によるラッセン論が本書である。重要なのは彼が「二つの世界」を表現し、そして二つの世界に生きたことだ。彼は海中と海上をひとつの画面に描き留めるだけでなく、画家であると同時にサーファーであり、巧みなビジネススキルを発揮しながら環境保全活動にも従事することで二つの世界を行き来してきた。

 本書の議論は水族館の誕生によって海中世界を横から見る自由を人類が手に入れた瞬間にまでいたる。それはラッセンというプリズムがなければつむぐことのできない人類史を明るみに出す貴重な仕事である。本を読むことの面白さの根源、そのときめきを思い出させてくれる。

 しかし最後に付記すれば、本書を読んで欲しいと私が思うのは、アート=ラッセンだと思う日本の人々、あるいは美術関係者ではなく、ラッセン本人だ。もしもこの本に続編があるのなら……原田とラッセンの対話によって、これまで語られることのなかった別の美術史を本人の声でつむぐ機会があってほしいと思う。

はらだゆうき/1989年、山口県生まれ。アーティスト。近年は日本ハワイ移民資料館、KAAT神奈川芸術劇場、京都芸術センター、金沢21世紀美術館などで個展を開催。単著に『とるにたらない美術』、編著に『ラッセンとは何だったのか?』(増補改訂版が2月発売)がある。
 

ふせりんたろう/1994年、東京都生まれ。アーティスト。個展「新しい死体」、著書『ラブレターの書き方』、詩集『涙のカタログ』。