結果はいまさら書くまでもない。米軍はこの面積約20平方キロメートルの小さな島の攻略に、圧倒的優勢な兵力を投入してきた。上陸開始前の艦砲射撃、航空機による爆撃で島はまったく緑の見えぬほど焼けただれた。空から叩きこまれた爆弾120トン、ロケット弾2千2百5十発、海からの砲弾3万8千5百発。島にはもはや生物は存在しえないと思われるほどの猛攻のあと、海兵第三、第四、第五師団7万5千人あまりによって上陸が敢行されたのである。
迎え撃った日本軍将兵は善戦力闘した。上陸前に米上陸部隊司令官ホーランド・スミス海兵隊中将が「作戦は5日間で完了する」と豪語したが、そのような容易なものではなかった。昭和20年2月19日朝の米軍の上陸開始から、栗林中将が最後の突撃を命令した3月26日夜明けまで、戦闘は一瞬の休止もなくつづいた。
米軍の損害は死傷2万5千851名。上陸した海兵隊員の3人に1人が戦死または負傷したことになる。日本軍の死傷者は2万数百人(うち戦死1万9千9百人)。太平洋戦争で、米軍の反攻開始後その損害が日本軍を上まわったのは、この硫黄島の戦いだけであった。
「過去168年間でアメリカ海兵隊が最も苦しんだ戦闘」
スミス中将は言った。
「この戦闘は、過去168年の間に海兵隊が出会ったもっとも苦しい戦闘の一つであった。……太平洋で戦った敵指揮官中、栗林はもっとも勇猛であった」
日本軍の捕虜は1,033人。すべてが負傷して動けなくなったものばかりである。
これほどまで頑強な抵抗を示し時間をかせぎながら、硫黄島防衛の将兵もまた、ついに米一粒すらの本土からの救援もなく、食なく、水なく、弾丸なく、まさに孤軍奮闘に終始したのである。栗林中将の言にある大本営の約束はいったい何であったのか。果たしてあったのか。部下の士気を鼓舞するための栗林の虚言であったとはとても思えない。栗林とはそのような強がりによって部下統率をはかるような軍人ではなかったからである。
なるほど栗林は陸軍きっての文人として名高かった。長野県出身、陸士26期、騎兵科、陸軍大学を2番で卒業した秀才。小説を好んで読み、詩をつくり、文章もうまかった。そして容姿端正、そのダンディな日常挙措は、陸軍将校中でも群をぬいていた。