そんなわけだから、まさに周辺は北炭の企業城下町。炭鉱で働く人とその家族、彼らの生活はすべて北炭の丸抱えで、家賃水光熱費から映画まで、なんでもかんでも北炭の負担、つまり無料で提供されていたという。

 しかし、石炭の時代は終わり、徐々にヤマも減っていく。ヤマが減れば仕事がなくなるわけで、人口も減少。ピーク時の1960年からわずか15年、1975年には5万人ほどにまでなってしまった。

石炭にかわる産業として打ち出したのは…

 そうした中で、石炭に次ぐ新たな産業として夕張市が打ち出したのが観光だった。

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1985年、夕張駅前にて ©時事通信社

 その頃には、常磐炭田が常磐ハワイアンセンター(現在のスパリゾートハワイアンズ)に転換して成功した先例があった。その二番煎じというか2匹目のドジョウというか、少なくとも職にあぶれた炭鉱労働者たちを食わせねばならなかったのだから、夕張市も必死に知恵を絞ったのだろう。

 そうして生まれたのが、遊園地をはじめとするレジャーランドだったのである。

©鼠入昌史

 実際、「炭鉱から観光へ」の転換はそれなりに結果も出ている。1970年代末には年間50万人に満たなかった観光客も、レジャーランドができてからは3倍以上の180万人を超えるまでに。

 さらにその後もホテルを建てて映画祭を催し、ありとあらゆる手を打って観光への傾斜を強める。純粋に民間の手による事業はほとんどなく、市が出資した第三セクターでの運営であった。

©鼠入昌史

 しかし、そもそも閉山対策に500億円という大きな負担を強いられた上での、超をいくつつけても足りないほどの積極財政である。

 そこにバブル崩壊後の観光客激減が加わって、観光施設は赤字が続く。それはもちろん市が補わねばならず、ついに行き詰まったのが財政破綻というわけだ。