防大4年のときに「三島事件」を体験した
――防衛大学校時代では、1970年に起きた「三島事件」。作家・三島由紀夫が憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけ、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した事件ですが、この時は……。
田母神 防衛大学校4年の時ですね。
――軍隊ごっこみたいに言う人も当時いたと思うんですが、田母神さんご自身はどんな風に見ていましたか?
田母神 三島由紀夫という作家は、非常に感性が鋭くて、ものがよく見えている。だから、三島の言動は面白いなと思って見てはいましたけどね。その感は、私が年をとるにつれて深まっている気がします。日本が今みたいな状態になって、結局外国から言われっぱなしで、ちゃんと反論もできない「腑抜け腰抜け国家」になるってことを、昭和45年の段階で三島由紀夫は見通していたのではないかと思うんです。彼がやったことは決して許されるものではありません。しかし、自分の命をかけて、国家や国民に対して警鐘を鳴らしたという意味では、立派な人だったんだと思います。彼は決して自分のために決起したのではないのです。自分のためであれば自決などせずに生きのびようとするはずです。
――ちなみに、このころの防衛大学校校長はどなたでしたか?
田母神 猪木正道さんです。その前は陸上幕僚長をされていた大森寛さんが校長をされていた。
――猪木正道さんは『正論』などでも執筆活動され、保守論壇の大御所という感じがしますが、一方で民社党を支持する論者でもありました。田母神さんが学校で見た猪木さんの印象はどういうものでしたか?
田母神 ちょっとリベラルだなという感じは、当時から受けていましたね。たとえば「イギリスでは国防省の軍人は制服を着ないんだ。だから自衛隊も防衛庁の中では制服を着ないほうがいいんじゃないか」という話を猪木さんがされるのを聞いた覚えがあるんです。私はそれは違うんじゃないかって反発してしまいましたね。あと、猪木さんの三島事件に対する評価にショックを受けました。
――どんな評価だったんでしょうか。
田母神 事件が起こるまで猪木さんは三島を絶賛していたはずなんです。私たち学生の前でもそういう話をしていたように思います。ところが、あの事件後、評価がコロッと変わったんです。三島由紀夫はとんでもないやつだ、と。私は学生ながらに「学校長、人ってそんなに変われるもんですか」と思ってしまいましたよ。あれは、けっこうショッキングでした。
自衛隊入隊 どうして「ミサイル部隊」を希望したのか?
――ちなみに田母神さんは三島の作品に親しんではいたんですか?
田母神 いや、全く読んでないです。小説はさっき言った松本清張、あとは最近になってからだけど、侍ものの時代小説が好きですね。2016年に公職選挙法違反で逮捕された時に拘置所の中で読んだのは『葉隠』。「武士道とは死ぬことと見つけたり」か。
――拘置所では百田尚樹さんと渡部昇一さんの対談『ゼロ戦と日本刀』もお読みになったと、著書に書かれていますね。
田母神 そうですね。拘置所ってやることないから本を読むくらいしかないんです。
――1971年、田母神さんは22歳で防衛大学校を卒業され、航空自衛隊に入隊します。そして福岡県築城基地の「第2高射群第7高射隊」に配属されます。これは地対空ミサイルの部隊ですが、どうしてミサイル部隊を選ばれたんでしょうか。
田母神 もともとから話すと、私はパイロットになりたかった。あの格好いい戦闘機に乗ってみたいという単純な理由です。だから航空自衛隊を選んだんです。大学校卒業後、幹部候補生学校に半年行きまして、そこでパイロットの適性検査を受けます。ところが、この検査では35名の合格者の中に入ることが出来ず、パイロットの道が閉ざされてしまった。それで、第一線で戦う職務で戦闘機部隊以外に進むとしたら残りは地対空ミサイル部隊か、要撃管制部隊。要撃管制というのは、地上から戦闘機やミサイル部隊に指令を出す仕事です。ただこれは領空侵犯を見張るようなレーダーサイトでの仕事が主ですから、基本的に離島とか僻地での仕事になるんですね。一方の地対空ミサイル基地は比較的、市街地の近くにあったんです。それで、僻地勤務はしたくないという「崇高な理由」で、私は自衛官としての一歩を踏み出したんです(笑)。
――いわゆるナイキミサイル。アメリカ製の地対空ミサイルを扱っていたわけですが、そのあとアメリカ製ミサイルでいうとパトリオット……。
田母神 ペトリオットっていうんですよね。
――ペトリオットですか。
田母神 アメリカの発音だとペイトリオット。そこで航空自衛隊では最初はパトリオットだったんだけど、パがぺになって、ペトリオット。