日本列島を襲った10月の台風19号。首都・東京周辺でも、河川の氾濫によって武蔵小杉や二子玉川など一部地域が浸水する事態となった。今後、同じ規模の台風が東京を襲った場合、どうなるのか。荒川が氾濫した場合、新海誠監督の最新作「天気の子」で描かれたような東京沈没もありうるという。
“東京沈没”が現実化していた可能性も
10月12日、13日にかけて本州に上陸した台風19号は、甚大な被害をもたらしました。全国で、死者88人、行方不明者7人(10月26日時点)にのぼり、水が堤防を越えて氾濫が発生した河川は、延べ281本を数えました。
なかでも、多摩川の氾濫には、「都市部も洪水と無縁ではない」と衝撃を受けた方も多いでしょう。12日午前6時以降、多摩川の水位は上がり始め、午後10時に氾濫し、大田区田園調布の住宅街では水が腰の高さまで達し、世田谷区の二子玉川駅周辺も、堤防が未整備の駅の南西部分から水が浸入し、浸水被害に見舞われました。
このように今回の台風は、東京の都市部にも甚大な被害をもたらしたのですが、もっと恐ろしい事態も起こり得たのです。河川やダムの状況を細かく検証すると、実は危機が目前に迫っていたことが分かります。もう少し状況が違っていたら、まさに映画「天気の子」が描いているような“東京沈没”が現実化していたかもしれないのです。
東京、なかでも“下町”と言われる東部の「江東5区」には、荒川、江戸川、隅田川など多くの河川が流れています。その水源は、関東の山岳部にあって、そこに降った雨も、最終的にはこの地域に流れてくることになります。ですから、治水対策も、上流域(ダム)、中流域(遊水地)、下流域(放水路、堤防)、それぞれで講じる必要があります。
今回の台風の際にも、こうした上流・中流・下流の各施設がまさに“フル稼働”することで“東京沈没”という事態を防ぐことができたのです。
氾濫危険水位まで50センチ
まず上流では、試験湛水を開始したばかりの利根川水系の「八ッ場ダム」が早速活躍しました。降雨により11日未明から13日朝までに八ッ場ダムの水位は約54メートル上昇し、“満水状態”どころか、本来の想定容量上限を1,000万トンも上回る、7,500万トンもの水を貯めました。民主党政権時に有効性が疑問視され、建設も一時中断されましたが、「八ッ場ダム」がなかったら、利根川水系は、より切迫した状況になっていたはずです。
中流域では、「渡良瀬遊水地」や「菅生調節池」をはじめとする各遊水地群が総量で約2.5億トンもの水を貯え、洪水を防ぎました。
そして下流域では、「岩淵水門」がその役割を果たしました。これは、荒川と隅田川を分ける水門で、増水した荒川から隅田川への水の浸入を防ぐため、12日夜に閉門されました。
ちなみに「岩淵水門」は、「荒川(荒川放水路)氾濫の際に決壊地点となる恐れあり」と懸念されているポイントの1つなのですが、「氾濫注意水位(レベル2)」「避難判断水位(レベル3)」「氾濫危険水位(レベル4)」「氾濫発生(レベル5)」と危険度レベルがあるなかで、13日午前には、「避難判断水位」を大幅に超え、「氾濫危険水位」まで約50センチのところへと迫っていたのです。
4年ぶりにフル稼働した“地下神殿”
埼玉県春日部市にある「首都圏外郭放水路」、通称「地下神殿」も活躍しました。これは、上流域の5つの中小河川の氾濫を防ぐために、より川幅の広い江戸川へと排水し、江戸川区や埼玉県東部を水害から守る役割を担っています。今回、4年ぶりにフル稼働し、12日から15日午後までに、約1,151万トンを排出したのですが、施設完成の2006年以降、過去3番目に多い排水量でした。しかし排水によって江戸川自体が氾濫しては元も子もありません。そのため、24時間体制で職員が各水域の水位観測を行い、放流量を調整するといった難しい判断が求められます。1つ間違えば一大事ですから、今回も、現場では、相当な緊張を強いられたはずです。
今回の台風では、このように多くの治水施設が限界近くまでフル稼働することで、“東京沈没”という最悪の事態は避けられました。しかし、あと少しでも雨量が多ければ、あるいは台風の速度がもう少し遅ければ、一体どうなっていたか分かりません。
実際、今回の台風でも、12日午前には、江戸川区民43万2,000人を対象に「避難勧告」が出されました。「荒川氾濫」の危機は、それほど目前に迫っていたのです。
文字通り、低い“下町”
私は、長年、江戸川区の土木部長として、下水道や河川事業に従事してきました。その経験から、“東京沈没”という事態も、とても絵空事には思えません。
なかでも、墨田区、江東区、足立区、葛飾区、江戸川区の江東5区は、水害による甚大な被害が懸念されています。とりわけ恐ろしいのは、「荒川と江戸川の氾濫」と「高潮」が同時に起きることです。
俗に“山の手”と“下町”と言われますが、図のように、ちょうど山手線の東側にあたる“下町”は、文字通り土地が低いのです。しかも、もともと土地が低かった上に、経済成長期に多くの町工場ができたことで、地下水や地下ガスが汲み上げられた結果、さらなる地盤沈下が生じ、いわゆる“ゼロメートル地帯”、それどころか干潮時の海面よりも低い“マイナス地帯”までできてしまいました。
東京はもともと、関東地方全体に降った雨が、荒川などの川に流れ、山岳地帯から削り取られた柔らかい土砂が堆積してできた“陸地”で、わずかに海水面よりも高いだけの、低い土地なのです。その土砂を運んできたのが、今の「隅田川」と「江戸川」です。現在の「隅田川」は江戸時代には「荒川」と呼ばれていました。ちなみに、現在の「荒川」は、「荒川放水路」のことで、もともと「隅田川」の水が増水しないために開削した人工の放水路です。
江戸時代以前は、利根川も渡良瀬川も荒川も、関東地方の大きな河川は、全て江戸湾に注いでいました。
この河川の流れが、江戸時代に大きく変えられます。徳川家康が行った、いわゆる「利根川の東遷、荒川の西遷」で、利根川と荒川の一大付け替え事業を行ったのです。関東平野の開発のカギは、「治水」と「利水」にありました。
埼玉平野の東部を洪水から守りながら新田開発を促進し、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ると同時に江戸の洪水を防ぐことを目的に、「荒川」を「利根川」から分離させ、新川を開削し、「隅田川」を経て江戸湾に注ぐ流路に変えました。
しかし明治に入ると、都市化が進展して人口も増え、洪水の被害が深刻化しました。なぜなら、流路をむりやり変更しても、洪水になれば、結局、水は昔の川筋に従って流れてしまうからです。
消えた「荒川放水路」
明治43年には、「東京大水害」が起きてしまいます。文字通り関東平野一面が水浸しになったのです。全国で死者・行方不明者1,357人、全壊・流出家屋約6,600戸、床上・床下浸水約51万8,000戸、堤防決壊箇所7,063カ所という甚大な被害をもたらしました。この水害が、「帝都東京を守るには治水対策がいかに重要か」を明治政府に痛感させたのです。
東京の下町を水害から守る抜本策として、明治政府は「荒川放水路」の開削事業に着手しました。これは、北区の岩淵に水門をつくることで「荒川」(現在の「隅田川」)本流を仕切り、岩淵から当時の中川の河口に向けて延長22キロメートル、幅500メートルもの放水路を掘削するという、当時においては気の遠くなるほど壮大な計画でした。洪水時に、「岩淵水門」を閉めて本流の「荒川」の増水を抑え、増水分の大部分を幅広い「荒川放水路」に通し、一気に海に流下させるのです。
この工事全体が完了したのは昭和5年、竣工には20年もの歳月がかかりました。その後、「荒川放水路」の名称は、昭和40年に「荒川」とされ、それに伴い、「岩淵水門」より分派する「旧荒川全体」が「隅田川」と呼ばれるようになりました。
ですから、今では「荒川放水路」という文字は地図上から消えてしまっているのですが、それに伴い、こうした過去の洪水と治水対策の長い歴史も記憶から薄れてしまい、水害への恐れが人々の脳裏から消えてはいないかと危惧しています。
夜中の避難訓練
「荒川放水路」の存在にもかかわらず、大規模な水害は、戦後にも起きています。その1つが、死者・行方不明者1,930人を出した昭和22年のカスリーン台風です。
昭和22年のカスリーン台風で下町の大部分が水没
この時、「荒川放水路」は、岩淵地点で想定最高水位を1メートル以上も上回りました。荒川放水路区間では決壊の被害は生じなかったものの、荒川上流部で氾濫が発生し、また利根川が埼玉県栗橋の上流で決壊、「利根川」と「荒川放水路」に挟まれた一帯が浸水し、何日も水が引かない事態となりました。そもそも海面より低いような場所もあるので、いったん浸水すると、水が外に流れないのです。
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source : 文藝春秋 2019年12月