吉田正 歌謡界“天皇”の信条は「私は芸術家ではない」

橋 幸夫 歌手
エンタメ 芸能 音楽

戦後の歌謡界を支え、国民栄誉賞も授与された作曲家の吉田正(よしだただし)(1921―1998)は、1948(昭和23)年、戦争中に作った『異国の丘』でデビュー。『有楽町で逢いましょう』『いつでも夢を』など、50年間、絶え間なくヒット曲を飛ばし続け、スター歌手も数多く世に送り出した。歌手の橋幸夫(はしゆきお)氏(1943―)は愛弟子の一人。

 僕が遠藤実先生に連れられて、吉田先生のお宅を訪問したのは、デビューする半年ほど前、昭和35年の春先でした。当時、先生はスター作りの達人といわれ、“天皇”と呼ばれるほどでした。高校一年生だった私は、大作曲家を前に緊張して、お辞儀をするだけで精一杯でした。あとで「歌唱力より、人間性が第一なんだ」と言われました。先生は、遠藤先生と自分の靴を揃えて上がった僕を礼儀を知っている若者だと認めて、門下生にしてくれたのです。

 その年、先生の作曲による「潮来笠」が大ヒットして、レコード大賞新人賞をいただき、僕の人生は一変しました。

吉田正

 吉田先生に、初めて銀座の高級クラブに連れて行ってもらったのは10代のときでした。京都のお座敷遊びに、最初に連れて行って下さったのも先生でした。当時、先生は40代そこそこで、体力もあって、ハシゴ酒をしても平気でした。ダンディーで、どこへ行っても大変な人気でしたね。「遊ぶのは、曲作りに役立つからだ」とおっしゃっていました。先生は、街の中や酒場で時代の香を嗅ぎとっていたのでしょう。

 先生が他の作曲家と違っていたのは、「私は芸術家ではない。歌謡曲は、大衆に愛されなければならない」ということを信条にされていたことです。「流行歌」という言葉がお好きで、時の流れの中での歌なのだから、時代にマッチしたものでなければヒットしないという確信を持っていました。

 僕が先生にゴルフを勧めたのは、54、5歳のときでした。高年になって、健康のために少しは体を動かされた方がいいと思ったからです。しかし、先生は「ゴルフなんて面倒くさい。俺はやらないよ」と言う。

 ある日、僕は「ちょっと散歩に行きましょう」と言って、先生を近所のゴルフ練習場にお連れしました。先生はそこでも「俺は嫌だよ」と言われましたが、僕が紹介したレッスンプロについて渋々練習を開始されたんです。ところが、いざ始めてみると、面白くて夢中になられた。もともと始めると凝る方ですから、徹底的に練習されました。

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source : 文藝春秋 1998年12月号

genre : エンタメ 芸能 音楽