美空ひばり 錦之介さんの口紅

石井 ふく子 テレビプロデューサー
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美空ひばり(1937〜1989)は「真赤な太陽」(昭和42年)や「愛燦燦」(昭和61年)などの名曲を歌い、戦後の日本人を元気づけた。テレビプロデューサーの石井ふく子氏が晩年の素顔を回想する。

 ひばりさんと私は「かぼちゃの縁」で親しくなりました(笑)。なんて言うとおかしいですけど、もともとは私の父が新派俳優で、ひばりさんとも映画などで共演していたので、古くからの知り合いではありました。ただ、本当に関係が深まったのは昭和63(1988)年頃のことです。

美空ひばり ©文藝春秋

 ある日、「ピンポーン」と自宅のチャイムが鳴るので、「どなたですか?」と聞くと、相手は「かずえよ」とだけ答える。「誰だろう……」と不思議に思いながら、エレベーターで降りてみると、そこにはひばりさんが立っていました。考えてみれば、彼女の本名は「加藤和枝」でした。

 家に入るなり、ひばりさんは「あなた、好き嫌いがすごく多いと聞いたんだけど、これ、私が煮てきたから、食べてみてよ」と言って、突然、かぼちゃの煮つけを出してきた。私はかぼちゃが大の苦手だったので、嫌がりましたが、「駄目よ! 食べなきゃ、体に悪いから」と𠮟られて、観念して一口食べたんです。そうしたら、すごく美味しかった(笑)。

 そこから不思議な交流が始まりました。2人で一緒に旅行に行ったり、私の誕生日には食事に連れて行ってくれたり。1989年に、私が昼のドラマ「愛の劇場」シリーズ(TBS)を手掛けていて、テーマ曲をひばりさんに相談すると、「ちょうど今、コマーシャル用に収録したのがあるからどう?」と言って新曲を聴かせてくれたんです。それが、秋元康さん作詞の「川の流れのように」でした。素晴らしい歌でね。CM用だったのに結局、ドラマで使うことを快諾してくださいました。

 ひばりさんが亡くなるのはその年のことですから、仲良くなったと思ったらこの世を去ってしまった。でも、とても濃密な交流だったと思います。彼女の凄さは常に謙虚だったことです。「私は美空ひばりなのよ」という慢心が微塵もなかった。いつも周りに気を遣われる方でした。

 それと同時に「スターの気概」を感じさせる方でもあった。1988年4月、闘病生活の最中に東京ドームで行った「不死鳥コンサート」は、救急車も待機するほどの危うい状況だったのに、彼女は見事に全39曲を歌い上げています。そして最後に「人生一路」を歌い終え、メインステージからバックネットまで、約100メートルはある花道を退場していった。その間、たとえ足がよろけても、転びそうになっても、笑顔を絶やさず愛嬌を振りまく姿を見て、彼女のプロとしての強い精神力を感じ、思わず涙が出ました。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : ライフ 昭和史 芸能 ライフスタイル