「にっぽん縦断 こころ旅」は昨年、他界された火野正平さんが14年間務めてきた番組である。いただいたお手紙を読んで、その方の思い出の風景まで旅をし、その場所でもう一度手紙を読むというロケ。やることはこれだけ。台本も段取りもない。何が正しいのか、何を頑張っていいのかわからなくなる簡単なようで難しい番組だ。手紙を下さった方に気持ちを寄せて旅をする。そこさえブレなければいい。これは実際にやらせていただいて気付いたことである。14年前の正平さんが番組をスタートさせた時の映像を見たことがある。戸惑う正平さんが映っていた。役者には、台詞を離れて話すことが苦手だったり、人見知りする人もいる。実は正平さんもこのタイプではと思う。手紙の想いを伝えるためにどうすべきか、悩んでいたように見えた。見ていた私も、自分がその真っ只中にいるように緊張したことを覚えている。
昨年の秋、腰を痛めた火野さんの代走を務めていただけないかと番組側からお話をいただき、私でできることならとお返事をした。全部で9名のゲスト代走となった。女性も何人かは入るだろうと予想していたが、実際は私一人だけだった。具体的な旅の行程も聞かされず、女一人で飛び込むなんて大丈夫だろうかと怖くなった。そもそもなぜ私が選ばれたのか。聞けば正平さんから私の名前がよく出ていたという。正平さんとは何十年も会っていなかった。そんな私の名前を(よく)出すなんてことがあるだろうか? そんな人に正平さんは代走を任せるだろうかと不思議でしょうがなかった。言い訳がましいけど、代走者にとってはかなりのプレッシャーだし、勝手に比べられるのでは? という不安も出てきてしまう。しかも1回目からずっと一緒のスタッフがいる。女の私を受け入れてくれるだろうか。
40年も前のこと、私は先輩である彼のことを、正平ちゃんと呼び、ロケの合間に仲間と遊びに行ったり、飲みに行ったりしたことがあった。家が近くだったこともあり、お家にお邪魔したこともあったし、わんこと散歩しているところに遭遇したこともある。その後、私が引っ越して疎遠になってしまい、それからは、ご近所の正平ちゃんではなく、テレビで見る役者火野正平さんになった。
受けたからにはなぜという気持ちは胸の奥にしまって、彼が番組にスムーズに復帰できるよう、代走者としてしっかりタスキを繋ぎたいという気持ちが日毎に湧いてきた。

現地に着くとスタッフの方たちが出迎えてくれた。昭和な匂いのする男たちがゾロリといた。1人だけ女性ディレクターがいるが、彼女も含めみんな初回から一緒にやってきている仲間である。よそよそしい態度をとった私をみんな笑顔で迎えてくれた。優しかった。人見知りする私を焦らず待ってくれた。その時不安が消えてうまくいくと確信できた。
実際に自転車を走らせてみると、あらゆる風景、動物など、私が見るもの全てに火野正平を感じた。「ああ、彼はこの景色を見たんだな、この木に触れたんだな」と。戸惑いを乗り越え、ありのままに風景にとけ込む火野正平の映像が私の頭の中に何度も浮かんだ。時には隣にいてくれるかのように、見たこともない風景を、奇跡を、彼が私に見せてくれていると感じることもあった。「どうだ、美佐子。『こころ旅』いいだろ?」と。
スタッフと5人、同じ風を切って走る。私の背を追いかける4人は、14年間正平さんの背中とその背越しの風景を眺めていた。そして今そんな4人に見守られて先頭を走っている。もしかしたら、私の前にもう一人走ってくれている人がいるかもしれない。
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