「秀吉の新史料」がヤフオクに

村井 祐樹 東京大学史料編纂所准教授
ニュース 歴史

「こんなに自慢ばかりする同僚はイヤだ!」

 織田信長の側近たちは、羽柴(豊臣)秀吉のことをそう思っていたのかもしれません。

 4月6日から兵庫県立歴史博物館で、私が発見した秀吉の新史料が公開されています。天正6年(1578)から天正10年(1582)頃に秀吉が受け取った書状が中心で、全35点のうち34点が新発見。秀吉が播磨の三木城などを攻めた際に現地の国人を調略する様子なども記されており、播磨の地域史を研究する上でも一級の史料です。

羽柴秀吉の新史料を公開する村井氏 ©共同通信

 興味深いのは、信長の側近が秀吉に返信する形で送った書状です。三木城攻めなどでの秀吉の武功について「さすがのお手柄と存じます。天下で大変な評判です」と褒め称えています。秀吉はこれ以前、側近に戦果を報告し、手柄をアピールしていたのでしょう。当時の慣例では信長に直接書状を送れませんから、秀吉は側近に報告することで信長の耳に入ることを狙ったと見られます。功績を誇るために戦場の絵図まで描いていたようで、側近は「絵図を御屋敷で拝見し、たいへん驚きました」と持ち上げている。側近8名による連名の返信もありますから、秀吉は「一斉メール」のように手柄自慢を送っていたようです。大半は「ご無沙汰していたのに、急にお手紙をいただきありがとうございます」という挨拶から始まっています。久しぶりの連絡が自慢話だったことで、「どう返事したものか……」と困惑する姿が目に浮かぶようです。

 信長の側近の多くは本能寺の変で討死したため、彼らの活動は不明な点が多かったのですが、その一端も明らかになりました。例えば、桶狭間の戦いで今川義元の首を取った毛利新介も秀吉に書状を送っていました。桶狭間から20年が経つのに大名には取り立てられず、この時期も信長の馬廻として活動していたことが確認されたのです。

 これらは天保2年(1831)に書き写された写本で、1通を除き、原文書は見つかっていません。詳細は4月末に刊行した『中世史料との邂逅』(思文閣出版)に譲りますが、筆致だけでなく花押を含め、極めて忠実に原本を写していると言えます。

 この史料は一昨年1月に「Yahoo!オークション」で見つけました。和本で、表紙には何も記されていませんでした。開始価格は1000円で、最終的に格安で落札できました。内容は歴史学にとって重要でも、江戸時代の写本ですから骨董品としての価値は低く、したがって安く落とせたという訳です。

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source : 文藝春秋 2024年6月号

genre : ニュース 歴史