戦国の三英傑に仕えた茶人に注目が集まっている。文人として活躍し利休が一目置く高名な茶人でもあった有楽斎(うらくさい)が四百年遠忌を迎えた。「楽しみ有り」を求めた数奇な運命を京都の建仁寺塔頭正伝永源院でたどる。
写真=阿部 浩

柔和な表情に、鋭い眼光が宿る織田有楽斎像
茶の湯は客をもてなす道理を本位とする也

正伝永源院に復元された茶室「如庵」。有楽斎の茶室は利休のそれとは大いに異なり、明るく広い。細竹を並べた有楽窓は心地よい風と陰影をもたらす。当院の真神啓仁住職は「当時のかたは今ほど背が高くなかったので、一層広く感じられたでしょう。型にはまりすぎないことを理想とし、寛ぎのもてなしを希求した有楽斎らしい設えです」と語る。文字をデザインととらえて壁に暦をはりつけた「暦張り」もモダン。茶室の実物は国宝に指定され、現在は愛知県犬山市にある
逃げたのではない。信長の弟にして激動の時代を生きた
織田有楽斎(織田長益)は1547年、織田信長の弟として生まれた。信長より13歳、年下だった。19歳のときに武将の子として戦に臨んだものの、残念ながら武功を挙げることはなかったという。本能寺の変の際は、明智光秀の謀反を耳にすると滞在先の二条御所を抜け出し岐阜に逃れ、「逃げの有楽」とも揶揄された。
「後世自害は究極の美学とされましたが、戦国の乱世で逃亡はごく当たり前の手段です。決して恥ではなかったと思います」と真神住職は語る。
一方、有楽斎は信長の忠臣・平手政秀に茶道や和歌の手ほどきを受け、教養深い有識者として異彩を放った。
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source : 文藝春秋 2023年5月号