身長170センチ、体重85キロの体格ながら、1日9時間以上の猛練習を積んだ柔道家の木村政彦(きむらまさひこ)(1917―1993)は、全日本柔道選士権での最年少優勝を含め、1935(昭和10)年から昭和25年に引退するまで無敗を誇った。プロレスラー転向後は、昭和29年の力道山との対決で話題に。夫人の斗美さんが“柔道の鬼”の素顔を語る。
終戦の年の昭和20年7月に郷里の熊本で結婚しましたが、格闘技が好きでなかった私はあまり乗り気ではありませんでした。しかし、柔道家として名前が知られてましたから、断るような縁談ではないと周りが話をどんどん進めてしまったのです。
しかし、結婚生活は苦難のスタートでした。主人は柔道師範で拓殖大学の講師をしてましたが、1カ月後に終戦を迎え、GHQの命令で学校柔道禁止令が出て職を失ってしまったのです。生活のために主人は熊本で闇屋を始め、統制品の米、芋、醤油をトラックに満載して、博多方面まで売りに行ってました。捕まったときは柔道関係者の警官に頼み込んで3、4日もすれば出てきてましたね。
しばらくは定職につかず、闇屋や地元財界人の用心棒をして生活をしてましたが、昭和24年、8年ぶりの大試合になる全日本柔道選手権に出場しました。結果は決勝で引き分けでした。熊本県警の推薦で警視庁の柔道主任師範の就職話がもちあがり、主人も柔道に専念できると喜んでお受けしたんです。

ところが初出勤まであと2カ月というときに、学生時代の柔道の恩師である牛島辰熊(うしじまたつくま)先生からプロ柔道を旗揚げするから参加してくれと懇請されたんです。警視庁の話がありましたので悩んでいたようですが、大恩ある師匠の頼みを断り切れず、プロ柔道に加わりました。主人の母は「とうとうショーのポスターに名前が出るようになってしまって」と嘆いていました。私も「結婚の時の契約違反だ」と反対しましたが、主人は何も答えませんでした。家族のためにという気持ちだったんでしょう。
しかし、プロ柔道協会は一年ももたずにつぶれてしまったのではなかったでしょうか。それからの生活は大変でした。その頃、私は胸を患い、熊本医大病院に入院しなければいけなくなったのです。
病気の妻を抱えて稼がなくてはならないという気持ちが強かったのでしょう。プロ柔道の仲間とハワイやブラジルまで遠征に出かけ、プロレスを始めたんです。これが大当たりしました。かなりのお金を手にしたようです。日本では買えない肺結核の特効薬ストレプトマイシンやパスを買って、日本へ送ってくれました。この薬のおかげで私は命をとりとめたようなものです。そのときの稼ぎで熊本市内の繁華街に土地を買い求めてキャバレーを始めました。いずれ実業家へ転身する夢もあったようですが、2年で廃業してしまいました。
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source : 文藝春秋 1998年12月号

