激動する時代の教養ブームの火付け役/『伝える力』池上彰

ベストセラーで読む日本の近現代史 第69回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
ライフ ライフスタイル 歴史

 この10年くらい、社会人の間で教養ブームが起きている。その背景には、国際的規模で、政治、経済、技術が大きく変動する中で、日本人が生き残るためには、文科系、理科系に通底するリベラルアーツ(教養)が不可欠との認識がある。この教養ブームに火を付けた1人がジャーナリスト、作家、大学教授など多彩な活動をする池上彰氏(1950年生まれ)だ。

 池上氏はNHK記者時代、1997年から退職する2005年まで「週刊こどもニュース」(NHK総合テレビジョン)の「お父さん」役をつとめた。このときに、子どもの視座からニュースを伝える仕事を通じ、教養を伝達する力を磨いた。池上氏の表現法、コミュニケーション技術について記した『伝える力』(2007年)は、200万部を超えるベストセラーで、現在も売れ続けている。常識のようで、実際は正確に知られていない事柄について、わかりやすく説明する。

〈たとえば、日々のニュースではしばしば登場する「逮捕」という言葉。その令状である逮捕状は誰が出すかご存じでしょうか?/多くの大人は警察だと思っています。/でも、それは間違い。正しくは裁判官です。/このことは、暗記するだけでは「わかった」ことにはなりません。なぜ裁判官なのかまで突き詰めて考えてみましょう。/警察が自由に逮捕状を発行できるようになったら、それこそ警察国家になってしまいます。国民の人権を守ることができ、法律に詳しく、第三者の目で客観的に判断することができるのは誰かと考えていくと、適任は裁判官に行き着きます。/物事をここまで掘り下げて理解したとき、初めて「わかった」といえるでしょう。/「週刊こどもニュース」を制作してみて、「警察庁」と「警視庁」、そして「検察庁」の違いも、理解していない人が多いと実感しました。/番組あてに「警察庁と警視庁は、どう違うのですか?」という質問が寄せられたため、模型を使って、両者の違いを説明したことがありました。/すると、番組を見た大人の視聴者から「検察庁と警視庁の違いがよくわかりました」という反応があって、ガッカリしたこともあります。/ちなみに、警察庁は「全国の警察本部をとりまとめている国の役所」で、警視庁はいわば「東京都の警察本部」のことです。警察庁のトップは警察庁長官で、警視庁のトップは警視総監。そして、検察庁には検察官がいて、警察が捜査した内容をチェックして裁判に起訴したり、独自に捜査したりする機関です〉

 客観的な解説であるが、よく読むと警察権力の暴走を警戒する池上氏の価値観が滲み出ている。

踏み込んだ見解も表明

 池上氏に対して「物事を客観的に解説するにとどめ、自分の見解を表明しない。逃げている」という批判があるが、これは間違いだ。池上氏自身が、多様な見解を紹介するのが自分の機能であると述べていることを、読者や視聴者は素直に受け止めすぎている。池上氏は、激しい物言いを避けているだけで、かなり角の立つ見解を表明する論壇人だ。例えば、村上世彰氏に対する評価だ。

〈「証券取引市場のプロ中のプロを自任する私が、万一でも法を犯していいのか。プロ中のプロとして認識が甘かった」/村上さんは、証券取引法違反(インサイダー取引)をした容疑で逮捕される数時間前、記者会見の席でこう言い放ちました。二〇〇六年六月のことです。/(中略)村上さんの発言からは、世論操作の意図を感じてしまったのです。自分一人を悪者にして、好感度を高めよう、同情を集めようとしている印象を受けました。/自分一人だけが悪者になれば、部下を守ることができ、ひいては村上ファンドを存続させられる。/彼が「悪いのは自分」と言った背景には、そうしたしたたかな計算もあったでしょう。/また、検察から「あなた、(インサイダー情報を)聞いちゃったんでしょ」と問われて、「聞いちゃったんですよね」と答えたのは、犯意はなかったことを強調したかったからでしょう。/「悪いといえば、それは形式的には悪いことでしょうから、お縄は甘んじて受けます。でも、自分はそんなに悪いことをしたつもりはありませんよ」と。/要は、こう言っているのですね。/彼の“世論操作”は、途中までは成功しているかに見えました。/でも、計算した言動をとっている、本心から反省しているわけではない、ということが見えてしまったため、失敗したのです。/ですから、会見が続いているうちに、思わず「皆さんがぼくのことがすごい嫌いになったのは、むちゃくちゃ儲けたからですよ。二〇〇〇億(円)くらい儲けたんではないでしょうか」などという発言が口をついて出たと思うのです。/この発言で、彼の好感度は決定的に崩れ落ちました〉

 池上氏が、村上氏に対して厳しい評価をしたのは、発話主体の誠実性に疑念を覚えたからだ。さらに興味深いのは、発話主体の不誠実性に対して大衆は理屈よりも、感情で反応するという見方を示していることだ。

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source : 文藝春秋 2019年6月号

genre : ライフ ライフスタイル 歴史