首里城を観るには、那覇の港から東へ、坂下から首里へ登り、観音堂の前を通り、中山(ちゆうざん)門をへて守礼門(この両門を俗に綾門(あやじよう)と美称でよんだが、中山門のほうは、明治中期に、老朽化したので解体して払いさげた)をくぐり、左手に園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門(琉球建築の典型的構造をおびる)を見て、城壁に達しては歓会(かんかい)門をくぐり、まもなく左手に久慶(きゆうけい)門を見つつ、右手へ石段を登って瑞泉(ずいせん)門をへて、左折し、漏刻(ろうこく)門をくぐり、さらに奉神(ほうしん)門をくぐって、ようやく正殿に達するのが、分かりやすい。これらの門の美称の構造を見ても、中国文化の影響を見ることができよう。
14世紀の半ばごろ、察度(さつと)王が造ったが、全島を統一して中山の王と称された尚巴志(しようはし)が住んで以来、国王の居城になった。
正殿のことを唐破風(からふあーふ)とよぶことがあるが、まさに中国風の建物だ。正確には和風と中国風とを器用に取り混ぜた構造で、風格を帯びている。
正殿の屋根の両端に龍頭があり向かいあっている。正面屋根の下は蛙股の形式でユニークなものである。正面石段の下端両脇に龍の立像があって、門番の体をなしているが、険しくはなく美術的である。
正殿で王は執務や典礼をした。正殿の傍に国王の居室としてこがね御殿などがあった。正殿の裏に後宮もあった。
木造部分は和漢の風(ふう)が複雑に絡み合っているが、一見したところ中国風が目立つ。
大正14年に国宝に認定された。
正殿の正面の広場(御庭(うなー)とよばれた)をはさんで、南殿、北殿とあって、北殿を中国からの冊封使節の接見の場とし、ペリー提督が1853年に浦賀へ行く前に来琉したときも、ここで会見した風景が、写真に見える。日ごろは評定所(ひようじようしよ)(王府の役所)にした。
南殿は1609年の薩摩支配以後に建設され、薩摩役人の来訪のときの駐在所にした。
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source : 文藝春秋 2020年1月号