ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットン氏(64)は、人材論・組織論の権威。「人生100年時代」という言葉の提唱者であり、長寿の時代に向けて働き方や生き方をシフトする必要性を説いて、世界的に影響を与えた。経営思想家の世界ランキングと言われる「Thinkers50」には、2003年以降毎回ランク入りを果たしている。
著書『ワーク・シフト‥孤独と貧困から自由になる働き方の未来図』(プレジデント社)や、アンドリュー・スコットとの共著『ライフ・シフト‥100年時代の人生戦略』(東洋経済新報社)は20カ国語以上に翻訳されており、日本でも前者は10万部、後者は35万部を超えるベストセラーだ。
「長寿」と言うと、年金や介護など負の側面がクローズアップされがちだ。長寿を厄災ではなく恩恵にするために、我々はどのような人生を築くべきなのだろうか。(取材協力・写真 大野和基)
リンダ・グラットン(ロンドン・ビジネススクール教授)
日本は高齢化の"トップランナー"
高齢化は今や世界的な課題です。1850年以降のデータを見ると、人類の平均寿命は10年ごとに2年ずつ延び続けている計算になります。
先進国においては、1967年生まれの半数は91歳まで、87年生まれの半数は97歳まで、2007年生まれの半数は103歳まで生きるとの予測もあります。「人生100年時代」は、もうすでに始まっているのです。
日本はその中でも、高齢化のプロセスにいち早く踏み込んだ国だと言えます。現在、平均寿命は約84歳と世界でもトップレベルで、65歳以上の高齢者は全人口の28.4%を占めています。10年後の2030年には、人口の3分の1が高齢者になるとの予測があります。
その意味で、日本は世界における“トップランナー”なのです。だからこそ、この5〜10年で日本がどのような行動を起こすのか、各国が注目しています。私は仕事で多くの国を訪ねますが、どの国でも、「日本では今、何が起きているのか」という質問を受けます。
高齢化の問題にどのように立ち向かうのか――日本の政府と社会は、世界に向けて模範を示す立場にあるのです。
寿命が延びると、私達の人生にどのような変化が起きるのか。1つの例として、1971年生まれのジミーという人物を考えてみます。
現在40代後半のジミーは、平均寿命をもとに考えると85歳まで生きるという計算になります。仮にそうなった場合、65歳で退職するとすれば、リタイア生活は20年にも及びます。その20年間を65歳の時の年収の50%で暮らしていこうと思うと、在職中に毎年の所得の17.2%を貯蓄し続けなければならないという計算になるのです。企業年金や公的年金も、将来どうなっているか分からないという不安があります。
この割合での貯蓄はかなり負担が重く、非現実的な話でしょう。そうなるとジミーには2つの選択肢が出てきます。1つは65歳で引退する代わりに生活レベルを下げること。もう1つは、引退の年齢を引き上げることです。これらの選択肢を提示された場合、多くの人は生活レベルを下げたくないため、後者を選ぶことになります。
60歳は「年寄り」ではない
つまり長寿社会とは、「より長く働く社会」でもあるのです。
自分が高齢者になっても働いている姿が想像出来ず、不安になる方もいるのではないでしょうか。ここで強調しておきたいのは、私達にまず必要なのは、年齢に対するステレオタイプな考え方を捨てることです。
私は2017〜18年に、日本政府が開催した「人生100年時代構想会議」で有識者議員を務めました。高齢化社会の問題について積極的に議論し、解決していこうとする日本政府の姿勢は賞賛すべきものでした。1つ残念だったことは、改革を推し進める立場の政府こそが「高齢者とはこういうものだ」という思い込みを持っていると感じられたことです。
小泉進次郎氏も「人生100年時代」という言葉を広めた
暦年齢は、人間を区別する指標の1つに過ぎません。社会的年齢や身体的年齢など、私達をはかる尺度には様々なものがあります。そもそも今の80歳は20年前の80歳と比べると健康ですし、「若い」「老いている」の概念は大きく変わってきています。60歳はもはや「年寄り」ではなく、70代半ばまで働けない理由はありません。
枠にとらわれない自由な考え方をすれば、高齢者は活気に溢れ、社会に大いに貢献できる存在なのです。私だって現在64歳ですが、大学教授として働いていますからね。本の執筆などの難しい仕事をこなす能力はまだ充分ありますし、出来るだけ長くこの仕事を続けていたいと思っています。
年をとるとワクワク
何よりも日本が有利なのは、世界各国と比べて「健康寿命」が非常に長いということです。つまり、多くの人が介護や寝たきりの状態になることなく、長く健康に生きることが出来るのです。60歳になって好きな仕事を見つけ、新しい人生を始めることも出来るわけです。年をとることは惨めなことではなく、ワクワクするものでなくてはいけません。
まずは長寿をポジティブに捉える。それこそが高齢化社会の状況を打破する鍵です。その上で日本政府や企業は、働きたいと感じている高齢者に、その機会を与えられるよう努力すべきです。
高齢者が働き続けることで、組織やそこに所属する人々が恩恵を受けることも多々あります。
長年積み上げてきた経験やスキルを持つ人が近くで働けば、若者にとって良い刺激になるのです。ある研究では、年齢構成が偏っている組織よりも、ばらけている組織のほうがチームの仕事が上手くいくことが分かっています。異なる年齢の人間が一緒に仕事をすることで、お互いに触発され、有益で生産的な結果が生まれます。多様性が、イノベーションを生む土壌となるのです。
こんなことを言うと、特別なスキルを持たない高齢者の方々は、不安な気持ちになるかもしれません。ですが、たとえ60歳を超えていても、新しいスキルを学ぶのに決して遅すぎる年齢ではありません。
例えば長寿国の1つであるシンガポールは、2030年までに、定年を現在の62歳から65歳にまで引き上げるという方針を打ち出しています。それに伴って人材開発省直轄の機関が、労働者のための新たな技術の習得を支援しているのです。高齢者であっても、補助金を受けてITなどの技術を学べます。
日本でも高齢者のためのセーフティネットを整え、特別なスキルを持たない人達については、次のステージに進むための手助けをしていくべきでしょう。人生100年時代では、大学で学んだ知識だけでは、仕事を長く続けるのに充分ではありません。
人が長く生きるようになると、働く長さだけではなく、働き方にも変化が起こります。
例えば、引退の年齢が70〜80歳になったとします。その歳まで同じ仕事をずっと続けることを想像すると、多くの人は精神的に耐えられなくなり、不安にもなるでしょう。長く働くためには、好きな仕事を見つけなければなりません。嫌な仕事を続けることほど、惨めなものはないですから。これからは、自分で小さなビジネスを興したり、複数の仕事に同時並行で関わる人が増えていくことが考えられます。
人生のマルチステージ化
これまでは「教育・仕事・引退」という“3ステージ”の人生が一般的でした。小学校から大学まで学び、大学を卒業したらフルタイムで働き、定年を迎えたら引退生活を送るというものです。皆で隊列を乱さずに一斉行進するので、自分がある年齢の時に何をしているのか予測がつきやすかった。
ですが今後、そのような画一的な生き方は時代遅れになるでしょう。一人ひとりが自分にとって理想的な働き方を追求し、各ステージの順序やタイミングも異なってくるからです。私達の人生は“マルチステージ”化していくことになります。
大学を卒業した若者がすぐに就職するとは限りませんし、一度退職してまた会社に戻ってくる人や、働いている途中で学びのステージに立ち寄る人も出てきます。
それに合わせて、企業は社員の働き方に柔軟性を持たせ、裁量権を与えていくべきでしょう。最近は副業を認める企業が多くなりましたが、実は副業制度はあまり生産的な方法ではありません。それよりも、週休3日にするとか、大きなプロジェクトを終えた後は2週間ほどの大型休暇をとらせるようにするべきです。まとまった時間を与えられるほうが、社員はさらに多くの選択肢を持てるようになります。
人生が3ステージの時代は、仕事は人生のおよそ半分を占める計算でした。一方でマルチステージになると、仕事は人生の「一部」に過ぎません。長く生きればその分、人は様々なことに挑戦したくなるからです。趣味に没頭するなど、プライベートも充実していきます。
日本人はこれまで、長時間労働をこなし、会社に献身的であることを美徳としてきました。その価値観を捨てることがなかなか出来ないのが、この国の人々が直面している心理的障害です。もちろん、仕事を一生懸命頑張るのは大事なことですが、「仕事に人生の100%を捧げるな」ということです。
もちろん、仕事に集中すべき時期というのはあります。
私の次男・ドミニクは外科医として働いています。仕事に追われ、健康的な生活を送っているとは言い難いですし、恋人がいるわけでもありません。仕事、健康、人間関係……全ての要素をバランスよく保つのが一番ですが、外科医として成長することが、今の彼にとって最優先事項であることは明らかです。それで手一杯の状態なら、他の要素に労力を回す必要はありません。
ただ、ドミニクが努力を重ね、外科医として自信を持てたとします。なら、そこからさらに前進し、健康やプライベートの充実にも力を入れなければならないでしょう。
3つの無形資産
長寿社会を幸せに生きるため、個人の備えとして何が出来るのか。
一般的には、不動産や株式などの「有形資産」が重視されがちです。もちろん、引退生活を安心して送るためには有形資産は欠かせません。ですが、長く働くために強みとなるのは「無形資産」です。お金にはなりませんが、人生のあらゆる場面で大きな役割を果たします。私は自著で、無形資産は3種類あると紹介しました。
1つ目は「生産性資産」です。価値ある高度なスキル、自分のキャリアにとってプラスとなる人間関係、会社や組織に頼らない自分自身の評判――それらを得ることによって、社会から求められ続ける人材でいることが出来ます。
2つ目は「活力資産」です。100歳まで幸せに生きるためには、肉体的・精神的な健康が不可欠です。運動や食生活を大事にすると同時に、適切なストレスマネジメントの実践も求められます。また、孤独な生活を送るより、家族や友人と楽しい時間を過ごす人のほうが長生きします。
最後に、「変身資産」です。長い人生を歩んでいく中で、ずっと同じ人間でいるわけにはいきません。勤務している会社が倒産するかもしれないし、時代も変化していきます。私達自身も、年をとれば心身ともに変化します。様々な変化についていける力を鍛えるためには、自分と向き合いつつ、自分と違う年代、性別、仕事、国籍の人達と関わっていくことが大事です。様々な人間と交わることで、「将来こうなりたい」というロールモデルを得るきっかけが生まれるからです。
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source : 文藝春秋 2020年2月号