作家・吉村昭(よしむらあきら)(1927―2006)は、「文藝春秋」で「海の祭礼」「夜明けの雷鳴」などの歴史小説を連載した。夫人で作家の津村節子(つむらせつこ)氏が、徹底した取材をすることで知られた夫との旅の思い出を綴(つづ)る。
夫婦で行楽の旅をしたことはなかった。一緒に旅をしようと思ったら、吉村の取材に同行し、かれが県立図書館や古書店や取材先を訪ねている間、私なりにその地を歩き廻って小説の素材を探す。
かれは日本全国足を踏み入れない県はないほど歩いており、長崎は107回、北海道は150回ぐらい行っている。私が会津戊辰戦争を書いた「流星雨」も、吉村が再々資料関係でお世話になっていた北方史研究家の谷澤尚一氏から、この素材は津村さん向きです、と渡された小冊子を基に書いたものである。

吉村が昭和40年に設けられたばかりの太宰治賞の2回目に初の受賞をした「星への旅」は、かれが勤めていた繊維組合の渡辺耕平氏から私の村は小説にならないかね、と言われて、陸の孤島と言われていた岩手県三陸海岸の田野畑村へ旅をし、海鵜(うみう)が棲息する目もくらむような断崖を訪れて創作意欲をかき立てられた作品である。
“切り立った断崖の上から濃紺の海と砕け散る波を見た。錆びついていた私の頭が、清冽な水で洗われたようにいきいきと動き出すのを感じていた”
と書いている。
陸が隆起して谷が形成され、その谷を下ってまた上らねば行きつけない田野畑村は、人々の交流も物資や文化の流通もはばまれていた。昭和40年にその槙木沢に橋が架けられる以前に、吉村は2泊3日かけて田野畑へ行っている。眼下にひろがる海は海食洞と荒々しい岩礁がリアス式海岸を形成して200メートルにも及び、その北のはずれには記念切手に2度もなった北山崎の岬が怒濤の中にそそり立っている。
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source : 文藝春秋 2018年1月号

