富士、いまだ遠く

第88回

藤原 正彦 作家・数学者

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ライフ 社会

■連載「古風堂々」
第83回 人間のクズ
第84回 断言
第85回 恵まれた立場ならばこそ
第86回 リズムが乗り移る
第87回 みんな大好きスローガン
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『夏の思い出』という歌がある。「夏が来れば 思い出す はるかな尾瀬 とおい空……」で始まる唱歌で、夏になると多くの日本人の心に風のように流れる曲である。私がこれを初めて聞いたのは、まだ学校に上がる前の昭和二四年、NHKの「ラジオ歌謡」によってだった。その頃、母は三人の幼児を連れた一年二カ月にわたる満州引揚げの労苦で身体を痛め、床に伏せていることが多かった。夕方になると重い身体をようやく起こし、「ラジオ歌謡」を聞きながら夕食の準備を始めるのだった。一流の作曲家、作詞家、歌手による歌が一週間を通し流されるので、音痴の母も、尾瀬とは何かを知らない私も覚え一緒に口ずさんだ。

 一方、唱歌『ふじの山』(あたまを雲の上に出し 四方の山を見おろして かみなりさまを下にきく ふじは日本一の山)は父の思い出である。この歌は大正時代、小学校三年生が唱歌の時間に習う曲だったから、父はそこで覚えたのだろう。母と同じく音痴の父が幼い私に歌ってくれた。

 父の生家は上諏訪駅から四キロほど霧ヶ峰方面に登った、標高一〇〇〇メートルの所にある。東西から山が迫った狭隘(きょうあい)の地で、急な坂に沿って数十軒の農家が寄り添う小さな部落である。父は子供の頃からいつも、山の向こうには何があるのだろう、と思っていたそうである。『ふじの山』の雄勁(ゆうけい)な歌詞に胸打たれた小学生の父は、富士山に強い憧れを抱き、「霧ヶ峰からは富士が見える」と聞くやいても立ってもいられず、ある晴れた朝、山道を四時間ほど登り標高一六〇〇メートルの霧ヶ峰に立ったそうだ。東には八ヶ岳の峰々が連なり、南には甲斐駒ヶ岳、仙丈岳、北岳など南アルプスの三〇〇〇メートル級の山々が雄姿を見せている。目をこらすと、新緑に覆われた八ヶ岳連峰と南アルプスの間に、なんと純白に輝く山が見える。富士山だった。父の運命はこの時に決まった。

 父新田次郎は昭和七年に中央気象台(現気象庁)に入るや、志願して富士山頂観測所員となった。年に三、四回登ると、そのまま三〇日から四〇日ほど滞在し、気象観測や気象測器の保守点検に携わるのである。夏は登山客で賑わう山頂だが、厳冬には毎日、零下二〇度以下、風速は二〇メートル以上となるため、観測所に四人の気象台職員と一人の強力(ごうりき)兼炊事係の計五人がいるだけである。厳冬期、戸外には所員も出ないようにしていたが、飲料水を作るため氷った雪が必要である。これを取りに父は、同僚と一緒に完全な防寒装備で火口内に降りて行った。と、二メートルほど上にいた同僚が足を滑らせ落ちてきた。父は止めようとしたが支え切れず、共に勢いよく二〇メートルほど滑落した。足につけたアイゼンも手に握ったピッケルも鉄板のような硬い氷に刺さらなかったのだ。「運よく、大きな岩にぶつかりやっと止まったんだ。あと二〇センチ左右にずれていたらそれまでだった」と私達家族は何度も聞かされた。ある時、「この同僚は数年後に戦死した。気持のいい男だった」とつぶやいた。

 余暇にはよく読書をした。また、社交ダンスに凝っていた先輩の教則本で基本ステップを丸暗記し、自家発電の電気で動く蓄音器から流れる、淡谷のり子などに合わせ、椅子を抱いて練習もしたと語っていた。この先輩は親切で、一緒に下山した時、御殿場の旅館で風呂に入り、床屋に行き小ぎれいにし、洋服に着がえた後、熱海のダンスホールに連れて行ってくれたという。生まれて初めて女性を抱擁した父は、椅子とは大分勝手が違い面食らった、と言っていた。快晴の夜には山頂から銀座の灯が見えたらしいが、かくも隔絶された地に、結婚するまで六年間にわたりいたのだから、富士山は父の青春だったのだろう。

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source : 文藝春秋 2026年9月号

genre : ライフ 社会