戦略をなくした国

第89回

藤原 正彦 作家・数学者

NEW

ライフ 社会

■連載「古風堂々」
第84回 断言
第85回 恵まれた立場ならばこそ
第86回 リズムが乗り移る
第87回 みんな大好きスローガン
第88回 富士、いまだ遠く
第89回 今回はこちら

「徒然草」や「方丈記」に表れているように、我が国では古来、カネとかモノにこだわらない高潔清貧が美徳とされてきた。その日本が江戸末期に開国し生き馬の目を抜くような国際社会に入ると、世界は自分や自国の利益しか考えない人ばかりだった。日本より識字率の低い欧米諸国に見下され、不平等条約を押しつけられるなど散々な目にあった。ただ、明治日本を率いた旧武士階級の人々は、ほぼすべて寺小屋や藩校で教育を受けていて、戦略眼を持ち、戦略と情報は不離一体であることを知っていた。彼等はまず多くの優秀な人材を欧米に留学させ、社会、金融、学術、軍隊、工業について情報を集めさせた。そして日本が帝国主義に狂奔する欧米につけ入られず、アジア・アフリカのほぼすべての地域の如き植民地にならぬためには、文明開化による殖産興業と富国強兵しかないと見抜いた。慧眼であった。

 日清戦争では情報将校福島安正などが、開戦の十年以上前から「眠れる獅子」と言われた清国軍の兵器や兵力の数量、配置、士気などを調べ上げ、「大国だが弱兵ばかりで日本軍は圧倒できる」と結論を下していた。日本はそれを踏まえて開戦し、たった九カ月で清を撃破した。中国東北部から朝鮮へ触手を伸ばしたロシアについては、日露戦争の十二年前に福島安正が冒険旅行という名目の一年四カ月にわたるシベリア単騎横断をし、諜報活動を行なった。ロシア軍駐屯地の視察、満州への唯一の兵員兵器輸送手段となるシベリア鉄道の建設進捗具合、線路や鉄橋を爆破する場合の好地点などを徹底調査した。

 軍部と政府は協力し、情報補給を期して日露戦争の二年前に世界一の情報網を持つ英国と日英同盟を結んだ。また国力が段違いのロシアとの戦争では、緒戦で勝ち続け、なるべく早期に講和する以外にない、長く戦えば必敗で、満州、朝鮮どころか日本までが消滅しかねない、という戦略眼を共有していた。開戦と同時に政府は早期講和の布石として、親日世論醸成のため、米英に特使を急派し講演や新聞などへの投稿を重ねる、という情報工作を行なわせた。満州からロシアにかけて配置した日本人、中国人、英国人、ポーランド人などの諜報員が、ロシア陸軍、バルチック艦隊の動静などの情報収集に携った。中でも明石元二郎中佐は、情報収集ばかりかロシア国内の反帝勢力や革命勢力に対し、活動資金や武器購入資金の提供を行なった。「明石の功績は陸軍十数万人に匹敵する」と海外から評価されるほどだった。

 ところが、日露戦争に辛勝した日本、とりわけ軍部は大正昭和と進むにつれ自信過剰となり傲岸不遜となった。民間人に対し威張りちらし、政治にまで口出しするようになった。第一次大戦で世界が欧州を注視している隙に、中国に対華二十一箇条という恥ずべき要求を出したりもした。精神の劣化は、日露戦争で捕虜を大事にしたことで評判になった日本が、先の大戦では虐待で悪名をはせたことにも表れている。また、日露戦争での勝利が、日英同盟を始め各地に配置した諜報網からの豊富な情報、およびそれらに基づいた卓抜な戦略眼そして情報工作のおかげであったことを忘れ、皇軍不敗の精神主義に陥った。また第一次大戦という総力戦を戦わなかったため、情報活動の広がりや通信の傍受や解読の発達に取り残された。軍部は情報力の弱体化とともに戦略を忘れ、与えられた兵力でいかに勝つかという作戦、すなわち戦術一辺倒となった。

 この情報と戦略の軽視により、ドイツの軍事力と工業力を過大評価し、英国は間もなくドイツに屈服などという希望的推測に基づき、軍部、政府、新聞が「バスに乗り遅れるな」と騒ぎ立て、三国同盟という最悪の同盟に走った。軍部、政治家、国民の誰もがとうてい勝てないと内心思いながらアメリカとの戦争を始めた。陸軍情報部からの冷静な情報もあったが軽視された。外務省暗号は開戦前から米国に解読され日本の意図は筒抜けだったし、海軍暗号は開戦六カ月後に解読されたため、正面衝突なら圧勝したはずの連合艦隊がミッドウェー海戦で大敗し、昭和十八年には山本五十六連合艦隊司令長官機が撃墜された。解読されたことにすら気付かないという体たらくだった。

年額プランがおトク!月あたり900円で全記事読み放題

月額プラン

1ヶ月更新

1,200円/月

オススメ!

年額プラン

10,800円一括払い・1年更新

900円/月

1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き

電子版+雑誌プラン

18,000円一括払い・1年更新

1,500円/月

※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き

有料会員になると…

日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!

  • 最新記事が発売前に読める
  • 編集長による記事解説ニュースレターを配信
  • 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
  • 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
  • 電子版オリジナル記事が読める
有料会員についてもっと詳しく見る

source : 文藝春秋 2026年10月号

genre : ライフ 社会