いわさきちひろ 7000枚の童画を残した天才の哀しい記憶

黒柳 徹子 女優・ユニセフ親善大使

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童画家いわさきちひろ(1918―1974)は大正生まれ。若い頃から絵に目覚め、戦後児童出版物で活躍。昭和48(1973)年、ボローニャ国際児童図書展で絵画賞を受賞したが、翌年ガンのため55歳で死去。膨大な作品は「いわさきちひろ絵本美術館」に収蔵、随時展示公開されている。いわさきの絵をカバーに使用したベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の著者、女優の黒柳徹子(くろやなぎてつこ)氏が思いを語る。

 

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 実は私、ちひろさんには直接お会いしていないんです。いずれお会いできるだろうと思っているうちに、新聞で、ちひろさんの死亡記事を見て。悲しくて家族の方にお花とお手紙を差し上げたのが、ちひろさんの家族とお知り合いになった最初でした。「窓ぎわのトットちゃん」は、ちひろさんの作品を挿絵として使わせて頂きました。あまりにも本の内容にピッタリなので、亡くなったあとなのに、この本のために描いたと思っている方も多かったのです。

 ですから、生前のちひろさんについては詳しく知りませんでした。でも、ちひろ美術館の前館長だった飯沢匡(ただす)先生が「なぜちひろさんは可愛い子供ばかり、こんなに沢山描いたのだろう」という疑問をお持ちになった。そこで飯沢先生と私で色々と調べて「つば広の帽子をかぶって」という本にしたんです。この過程で、ちひろさんの生い立ちや青春時代などについて知ることができました。そして、ちひろさんが可愛い子供ばかり描くようになった理由も何となく分かったのです。

いわさきちひろ

 ちひろさんは小さい頃からクリスマスにディナーを食べにいくような家に育ったお嬢様でした。そして、年頃になると親の勧めるままに、お見合い結婚をしました。戦前ですから親の勧める人と結婚するのは不自然ではありません。けれど、その時、ちひろさんは、まだ大人に成りきっていなかったというか、結婚がどういうものか理解したくなかったのでしょう。ちひろさんは夫婦生活を拒み、その他にも何かあったようですが結局このことが原因で夫は自殺してしまいます。恐らく、この段階でも自分のしたことが、どんなことなのか本当には分かっていなかったのかも知れません。ちひろさんは、まだ無垢な純真なままでした。

 その後、戦争が激しくなっても父が軍の有力な地位(建築技術師として、陸軍築城本部に勤務)、母は満州の開拓団に女性を花嫁として送りだす責任者ということで、一般の人たちのような困窮生活をしなくてすんでいました。それどころか、終戦間近の昭和19年に、満州までスケッチ旅行をしています。ちひろさんと妹とで、満蒙開拓団への習字の教師をするという理由で満州に渡っているのです。けれど、実際は仕事はしないで、当地の連隊長の家に居候し、スケッチなどをして安全なうちに日本に戻っています。ソ連の進攻が目前だった時期ですから、いかにちひろさんたちは恵まれていたことか。ところが、ちひろさんは自分が他の人々に比べてどれ程幸運だったか、周囲の人たちとは違う環境にいたかということに気がついていなかったのです。もちろん、この後、残留孤児の人達が悲惨な運命に見舞われることなど、思いもしないことでした。

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source : 文藝春秋 1995年8月号

genre : エンタメ アート