今年6月、新宿花園神社で劇団唐組の第75回公演「紙芝居の絵の町で」(作・唐十郎、演出・久保井研+唐十郎)を観た。使い捨てコンタクトレンズを売る男、牧村が追うのは一瞬の瞬きのなかで生き続ける紙芝居の謎の絵。先導役は、かつて売れっ子の紙芝居屋として一世を風靡した老人、情夜涙子……紅テントを揺さぶる演劇世界に満員の観客が沸き立った。
唐十郎が2006年に発表したこの戯曲には、自身の少年時代が反映されていたことは間違いないだろう。昭和15年、東京・下谷万年町生まれ。昭和に入ると、絵と自転車一台があれば始められた紙芝居屋がほうぼうの街頭に現れ、子どもたちから圧倒的な支持を集めた。だから、少年時代の唐十郎が下谷万年町の路上で「黄金バット」や「少年タイガー」を固唾を呑んで見る姿は容易に思い浮かぶし、その体験が物語世界へ踏み出す扉でもあったと想像すると、稀代の演劇人の原風景に触れる心地がする。いまも全国あちこちに忽然と現れる唐組の紅テントは、もしや町角の紙芝居が原点だったのではないかと思うほどだ。

日本のあちこち、どこからともなく自転車でやってくる紙芝居屋のおじさんを少年少女が目をきらきら輝かせて取り囲む光景は昭和のユートピアだった。青天井の下、日ごと夕暮れの路上で語られる絵物語。サーカスはめったにやって来ないけれど、紙芝居は毎日現れる。しかも、手作り感がふんぷんと匂う木枠のなかの絵は、親に買ってもらう絵本よりどこかいかがわしく、刺激が強い。昭和33年生まれの私も、親にせがんで財布から出してもらった10円硬貨を握りしめ、ズック靴で駆け出すと足がもつれた。
「紙芝居のおじさん」の登場は、遠くにいてもすぐわかる。
「パッパカパッパッパー」
鈍く光る古ぼけたコルネットを口に当て、おじさんが頬っぺたをふくらませて高らかに吹き鳴らすと、近所の子どもたちが三々五々集まってくる。自転車が停まる定位置は、原っぱの鉄棒のあたり。握り込んで温かくなった10円玉を渡すと、その場で作った水あめ煎餅かソース煎餅をくれる。薄くて丸い肌色の煎餅2枚は、しゃくしゃくと歯ざわりがいいのに、口に入れるとふんにゃり湿って、歯にくっついて離れなかった。
町から消えた
1枚は紙芝居が始まるのを待ちながら食べ、もう1枚は紙芝居を見ながら食べた。紙芝居のおかげで渋々許してもらえた路上の買い食い。しかも、木枠のなかの絵がしゅっとすばやく、あるいは焦らすようにゆっくり引き抜かれるたび、場面展開に息を呑む。黄金バットが不敵な笑い声とともにマントを翻して去ると、おじさんはもったいぶった声色で「ハイオシマイ。話のつづきはまた明日」。でも、翌日もまた紙芝居に行かせてくれるほど、親は甘くはないのだった。
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