欧米では危険性が指摘されているBZ系睡眠薬が、日本では高齢者を「落とす」ために使われている。医師によって処方された薬剤の副作用で、数十万人にも及ぶ高齢者の認知機能が落ちているとしたら、あなたは信じられますか?
睡眠薬・抗不安薬のベンゾジアゼピン
人生の最終章に差し掛かった大切な時期に、医師に処方された薬剤の副作用によって、人が変わったように認知機能が落ちてしまう。そんな高齢者の被害が数十万人に及ぶかもしれないとしたら、信じられるだろうか。
薬剤によって認知機能や運動機能の低下、過鎮静(鎮静が効きすぎて生気を失い、寝たきりになる)、あるいは逆に興奮を抑えられずに暴言や暴力を繰り返す。自分が自分でなくなり、ひどい場合は廃人のような状態に追い込まれる。海外ではかなり以前から警告が発せられていたが、日本ではつい最近まで放置されてきた。見かねた学会や一部の医師たちが、「薬剤起因性老年症候群」として注意喚起を始めたが、改善される兆しはない。
認知症を招くことも
東京近郊の特別養護老人ホームで看護師を務めるAさんは、かつて精神科の患者に携わっていた経験から、この施設内の睡眠薬・抗不安薬のベンゾジアゼピン(BZ)系薬剤の使われ方に疑問を持っていた。
この特養では、睡眠薬としてBZ系薬剤が多用されていること、その結果として過鎮静などの副作用を招く危険性があること。スタッフが足りなくて、過酷な労働を強いられていること。そんな話を聞いていたときに、衝撃的な言葉を聞いた。
「患者を落とす」
手に負えない入居者や歩き回る高齢者をBZ系薬剤でおとなしくさせることを指しているという。
この特養では、夜間ともなれば、介護士ひとりが30人ほどの入居者を担当する。定時の見回りやおしめの交換を数時間おきに繰り返す。容体が悪くなる人が出れば、さらに忙殺される。ひとりで歩き回る人がいても、とても付き添えない。放っておけば転倒して骨折のリスクがある。できれば眠っていてほしいというのがスタッフの本音だ。
そんなときに、使われる言葉が「落とす」なのだ。介護士に頼まれた看護師が、入居者を医師の元に連れて行ってBZ系薬剤を処方してもらう。ところがこのBZ系薬剤には副作用がある。夜だけ眠るならまだしも、昼間でも人が変わったようにグッタリとして、会話もできなくなる人が出てくる。認知機能も明らかに落ちていく。
Aさんが担当する入居者に80歳代の女性がいたが、BZ系薬剤が処方されてから人が変わってしまった。車いすに乗せても、きちんと座っていられない。手が震えてスプーンも使えなくなり、食事中も前かがみで机に伏してしまう。もちろん会話もできない。
嘱託医に「この人、睡眠薬は必要ですか」と尋ねると、BZ系薬剤の処方を減らしてくれた。それから間もなく、女性の姿勢がよくなってくるのがわかった。車いすも乗りこなせるし、スプーンも上手に使える。「ありがとう」と笑って答えてくれるのが嬉しかった。
薬が効きすぎて車いすから崩れ落ちるほどグッタリする高齢者に対して、「落としすぎじゃないの?」と囁き合うことや、薬剤の効きが悪いとさらに強い抗精神病薬に切り替えられることもある。Aさんは、薬剤で認知機能低下を招いている入居者は「3割、あるいはそれ以上いる」と話すが、先輩の看護師の手前、言い出せないでいる。
「転倒で骨折でもしたら責任が問われるし、点滴を抜いたり、暴言を吐く人もいる。おとなしくしてもらいたいと願うスタッフの気持ちもわからないではない。でも入居者のことを思うと心苦しい」
病院の都合でぐったりさせる
こんな施設は極端だと思うかもしれないが、こういった医療機関は、まだ他にもたくさんある。
関東地方の療養型病院に勤務する職員のBさんも、BZ系薬剤の使い方に疑問を持ち続けている。
入院中の80歳代の女性患者は、軽い認知症だったが、気配りのできる明るい女性だった。編み物が得意で、Bさんの姪っ子にマフラーを編んでくれたことがある。
腰の骨を折って手術をした病院から転院してきたが、リハビリを頑張って、ひとりで歩けるようになった。ところが、今度は転倒のリスクが生じてくる。動けないようにBZ系薬剤が処方された。
たちまち昼間でも寝たきりになり、会話もかみ合わない姿を見た家族がショックを受けるほどの変わりようだ。「認知症でも、会話もできて歌も歌える生活のほうがいいに決まっている。これではまるで廃人だ」と憤る。
Bさんは、BZ系薬剤などの向精神薬でぐったりした患者は3割以上はいると言う。「病院の管理上の都合で眠らせている。つまりは薬剤による拘束なんです」と打ち明ける。
患者の拘束が問題になって久しいが、身体拘束の代わりに薬剤による事実上の拘束が横行しているとしたら本末転倒だ。私たちには、これは薬剤を使った虐待に映る。
だが、一方では特養ホームや療養型病院の人手不足は深刻だ。国の方針で入院患者の在院日数短縮が進められ、おまけに看護師ひとりが担う患者数は増えている。まだ治療が必要な患者が転院してくるから、さらに疲弊する。そんな現場に「薬剤で眠らせるのは問題だ」と突きつけたらどうなるか。その答えを誰も持っていないところに悲劇はある。
米国では危険度「高」にランク
患者を「落とす」というBZ系薬剤とは、どんなものなのか。
開発されたのは1960年代と古い。感情などに関わるベンゾジアゼピン受容体に作用し、安全との触れ込みで全世界に広まった睡眠薬・抗不安薬だ。日本の睡眠薬・抗不安薬のほとんどはBZ系で、後発品も含めれば150種類以上もある。最近開発されたBZ系以外の睡眠薬は数種類しかないから、なかなか代替が利かない。
危険なBZ系睡眠薬
ところが、欧米では80年代から副作用が問題となった。とりわけ高齢者は、薬剤を分解する代謝が悪く排泄する能力も低下しているため体内に蓄積しやすく、効きすぎるというリスクがある。
82年にカナダの保健福祉省がBZ系薬剤についての解説本を公表した。そのなかで「強いふらつきや過鎮静は若者と比べて高齢者には2倍以上発現する」と指摘し、「使う場合は注意深いモニタリングが重要だ」と注意を促している。
米国で老年医療のバイブルと呼ばれているビアーズ基準でも、91年の初版から注意が喚起され、03年の改訂版では危険度が「high」(高い)にランクされている。
「まさに作られた認知症だ」
ところが、「日本では相変わらず漫然とした処方が続いている」と指摘するのは、減薬に取り組んでいる兵庫県立ひょうごこころの医療センター認知症疾患医療センター長の小田陽彦医師だ。
4年前の16年春先のことだ。80歳代の女性が娘に連れられてやってきた。その2年前に夫と死別してから気分が落ち込み、翌年には精神科医院で認知症との診断が下された。抗認知症薬とBZ系薬剤などが処方されたが、その直後から動作が緩慢になってきた。終日こたつで過ごすようになり、生気が失せた。娘に何度も電話を掛けるが要領を得ない。
小田医師が初診時に実施した認知症診断のミニメンタルステート検査(MMSE)は、30点中17点だった。23点以下は認知症の疑いがあるのだが、MRIでは認知症の兆候は見られない。
小田医師は薬剤起因性老年症候群を疑った。老年症候群とは老化現象のことで、薬剤が原因の場合に薬剤起因性老年症候群と呼んでいる。認知機能や歩行困難などの運動機能の低下のほか、過鎮静や興奮、幻覚、暴力などの精神・神経症状や消化器症状もある。最近では日本老年医学会でもこの言葉が使われている。
小田医師が、徐々に薬剤を減らすと、能面のようだった表情に明るさが戻ってきた。歩き方もしっかりしている。残念ながらレビー小体型認知症の疑いは残るものの、MMSEも認知症のボーダーラインである24点まで回復し、いまではデイサービスに通っている。
小田医師は、BZ系薬剤が原因だと考えている。
「あのまま服用し続けたら、寝たきりになって、そのまま亡くなっていた可能性が高い」
別の70歳代の女性が、内科医院でBZ系薬剤と胃腸薬を処方されると、認知機能が下がり食欲も減退し、追い詰められたような表情で小田医師の元にやってきた。
小田医師が薬剤を中止すると、1週間後には表情が明るくなり、MMSEも18点から23点に跳ね上がった。いまでは26点を維持している。
「まさに作られた認知症だ」と小田医師は感じている。
BZ系薬剤を止めたり減薬した結果、認知機能低下などの副作用が回復したケースは、多くの医師から聞くことができる。だが、これは減薬という意識のある医師だから見抜くことができるのであって、多くは見逃されているようだ。
例えば通院の場合、認知機能が落ちたとしても、薬剤のせいだとは誰も気づかない。急性期病院に入院中ならば、内臓疾患といった主病の治療に専念するから、ここでも見過ごされる。転院先の病院では、以前の処方を継続することが多いうえ、元気な頃の患者を知らないから「老化現象ですね」で片づけられてしまう。たとえ薬剤を疑っても、複数の薬剤を使用しているから、どれが原因なのかの特定は難しい。
今の医療システムの中でこの薬剤起因性老年症候群が埋もれてしまっているのは、そうした事情がある。
「認知症」の1〜2割が被害者
こういった被害に遭っている人はどれほどいるのだろうか。
小田医師は「認知症の疑いでやってくる患者の1〜2割というのが実感」と話す。
17年に日本神経学会が作成した「認知症疾患診療ガイドライン」では、99年のアイルランドの論文を根拠に「認知機能障害を呈する患者のなかで薬剤と関連すると思われる割合は2〜12%」と推計している。さらに古いが、87年に米国ワシントン大学の医療チームの論文では、認知機能低下を招いた65歳以上の308人のうち、約11%の35人に薬剤の影響があったと指摘している。小田医師の“実感”とほぼ一致する。
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source : 文藝春秋 2020年3月号