
経済学者・成田悠輔氏がゲストと「聞かれちゃいけない話」をする対談連載。第15回目のゲストは、マルクス・ガブリエルさんです。(全3回の完全版前編)
■成田悠輔の聞かれちゃいけない話(ダイジェスト版)
第11回 本庶佑 作文上手な人、文科省に挨拶回りする人が予算を取っている
第12回 黒田東彦 いまは金融も財政も引き締める時です
第13回 Ado 私の不登校体験
第14回 水原希子 山口智子さんと瞑想とSNS
第15回 マルクス・ガブリエル 倫理的資本主義が必要だ
第16回 筒井康隆 AIが文学的に駄目な理由
第17回 内田光子 音楽は教育じゃない、体験よ
■Markus Gabriel 1980年ドイツ生まれ。哲学者。ボン大学哲学科正教授に史上最年少の29歳で就任。著書に『倫理資本主義の時代』『なぜ世界は存在しないのか』など
入れ子構造の危機の時代
成田 こんな時代に哲学なんて無力で無意味ではないか? その疑問について最初に伺いたいです。戦争、エネルギー危機、感染症、気候変動――いま世界を襲っている問題は、国家や人類の生死に関わる目の前の物理的で暴力的な危機です。生き死にかかわる危機の対応に追われる人類に、哲学は何の意味や利益を与えてくれるのでしょうか。
ガブリエル 人類は昔から困難な問題を抱えて生きてきました。『方丈記』を読めば、平安時代ですら人生がどれほど苛酷だったかがわかります。
ただ過去の歴史における危機は今よりもっと直線的でした。例えば20世紀の国家間戦争には、比較的はっきりした対立構造がありました。

それに対して、今の時代の危機が新しいのは、「すべてが数学的に複雑な形でつながっている」という点にあります。一つの危機が別の危機を引き起こし、互いに悪循環を形成していく。ホルムズ海峡、ウクライナ戦争、気候危機、あるいはウイルス――人々が無視しようとしても依然として存在しています。ドナルド・トランプのような政治家を否定したところでこれらの危機が消えるわけではありません。
例えば、もしEUが経済政策としてグリーン・ニューディールを進めていなかったら――私は今でも正しい政策だったと思っていますが――プーチンはあのタイミングでウクライナ侵攻を決断しなかったかもしれない。「侵攻しなかった」と言っているわけではありません。ただ石油と天然ガスで稼ぐロシアにとって、あの政策は面白くなかったでしょうし、こうした状況は極めて精密に相互連関しているということです。
気候問題から話を始めても、東西対立から始めても、中国から始めても、結局は他の問題に行き着く。
そういう意味で、私は今の時代を「入れ子構造の危機(nested crises)」の時代と呼んでいます。
成田 これが原因でこの危機が起きた、といった一本の直線では完結しない時代ということですね。
数学を理解する唯一の方法が哲学
ガブリエル そうです。ところが多くの政治家は、危機を直線的に捉える誤りを犯しています。「一つ解決すれば、次の問題も順番に解決できる」と考えてしまう。
実際には、一つの問題を解決しようとすると、必ず他の多くの問題にも影響が及びます。その影響はしばしば予測不能です。
例えば、アメリカがイラン攻撃を決めたとき、政策担当者たちは、それが世界経済にどんな影響を与えるかを完全には予測できませんでした。もちろん予測モデルは作ったでしょう。でも、不確定要素が多すぎる。そして私たちはその予測不能な事態の入口に立っているに過ぎません。
今は、多くのアラブ諸国がアメリカ寄りだと考える人もいるでしょう。しかし、30年後にUAEがどんな政治的立場を取っているかなんて、誰にもわかりません。
重要なのは、どれほど物理的・軍事的に見える衝突の背後にも、知的な構造が存在しているということです。それは厳密な科学によってモデル化することができるし、されるべきものでもあります。
気象学にも、地球システム科学にも、経済学にも、物理学にも、AIにも、その背後には数学があります。そして、その数学を本当の意味で理解する唯一の方法が、哲学なのです。哲学とは突き詰めれば、極めて複雑な数学を、指導者や社会が理解できる言葉へと翻訳する「概念的かつ民主的な翻訳作業」です。それこそが、古代ギリシャ、古代インド、古代エジプト以来、哲学が果たしてきた役割なのです。

哲学が役に立った実例
成田 そうした「入れ子構造の危機」を理解するのに哲学が役立ったと言えるのは、どんな場面なのでしょうか。具体例を挙げてもらえますか。
ガブリエル ひとつめの具体例はパンデミックです。あの時、私は繰り返し「国境封鎖は戦争の可能性を高める」と主張していました。歴史を見れば誰でもわかることですが、国境をどう管理するかによって、戦争が起こる場合もあれば、起こらない場合もある。これはよく知られた事実です。パンデミック時に国境を封鎖すると――地理的条件にもよりますし、日本にもある程度当てはまるかもしれませんが――紛争の確率が高まります。
逆に安定した法制度のもとで比較的自由に越えられる国境は、異文化同士が接触する機会を生みます。多くの人がロシアへ行き、ロシア人も海外へ行けば、異文化交流が起こる。でも国境を閉ざし、人々を外部情報から切り離してしまうと、ナショナリズムは簡単に先鋭化し、衝突にまで発展し得る。
だからパンデミックのとき、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスと接しているドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州は、国境を完全には閉じませんでした。私たちの州知事は、哲学者、社会学者、ウイルス学者の助言を受けてその決断をしたんです。彼らの結論は、「国境を閉じるな。隣国との関係を傷つけるから」というものでした。実際には、人々はウイルスを恐れてすでに自発的に家に留まっていたので、全面封鎖までは必要なかったのです。これは、哲学的分析が現実の危機に応用された一例です。
分極化を理解する
ガブリエル 二つ目の具体例としては、「分極化」という現象を理解するのに哲学が役立ちます。
多くの人は、移民問題やLGBTQ差別、MAGA(トランプ支持運動)といったテーマそのものが社会の分断を生んでいると考えています。しかし、そうではありません。分断を生んでいるのはテーマではなく、SNSに象徴されるような情報の広がる仕組みそのものなんです。
成田 分極化装置の構造や力学が大切で、そこに投げ込まれるテーマは何でもいいということですね。
ガブリエル その通りです。私たちは今でも、情報やメディアは現実社会を反映するものだと考えています。しかしデジタル時代に生きる私たちが、実際に向き合っているのは「極めて複雑な情報環境との関係」です。だから分極化を理解するには、個別のテーマそのものを見るだけでは足りません。情報がどのように広がり、増幅されるのかを見なければならない。
その視点に立つと、政治的対立の理解の仕方そのものが一変します。つまり哲学的に見ると、「分極化」とは本質的に「情報空間の中で作動する数学的構造」といえます。多くの人はそれに気づいていません。
AIは道具ではない
ガブリエル 三つ目の明白な具体例は「AI」です。多くの人はいまだにAIを単なる道具だと思っています。半導体と電気で動く、高度なドライバーのようなものだ、と。ですが、それは根本的な誤解です。
AIは単なるツールではありません。AIは「精神のテクノロジー(mind technology)」です。インタラクティブなシステムを通じて、人間同士の相互作用を測定し、媒介する。ここでカギになるのが技術哲学です。技術哲学は、「AIとはそもそも何なのか」という、システムの本質そのものを理解する助けになります。
つまり、哲学とは「本質」を扱う学問なのです。もし私たちが物事の本当の姿を理解できれば、誤解を減らせる可能性が高まります。それが哲学ですし、哲学は文字通りあらゆるものに応用できるのです。
成田 AIについては後でくわしく話したいのですが、「AIは単なる道具ではない」という点には完全に同意します。むしろAIは、人間の情報や内面、人間同士の相互作用やコミュニケーションそのものを変えてしまう代理主体や触媒に近い。道具であると同時にメディアであり、薬物やアルコールのような面もあります。というか、AIはこれまでのどんな発明とも異質なので、既存の技術や道具のアナロジーで考えてしまうのが危険でもありますよね。
「新しい啓蒙」の時代へ
成田 いったん話を戻すと、コロナパンデミックの段階で国粋主義・排外主義の高まりや戦争突入を予見できたとおっしゃっていました。ではこの先にどんな未来が来ると予測していますか。
ガブリエル 私は、人類はこれから「新しい啓蒙(New Enlightenment)」へ向かっていくと思っています。これは私自身の呼び方ですが。歴史を見れば、この種の大きな転換は1世紀、あるいは2世紀単位で進行することもあります。ただ、今回はAIの存在によって、もっと速く進む可能性もあります。
では、「新しい啓蒙」とは何か。それは、人類がより高度な「地球規模で共有された意識」に到達する、ということです。もっと具体的に言えば、私は「21世紀はアジアの世紀になる」と考えています。
すでに「西洋(the West)」というカテゴリーは意味を失いつつあります。これは主に、ドナルド・トランプとEUの対立が原因だ、という話ではありません。問題はもっと深い。
そもそも「西洋」という概念自体が、もはや現実をうまく説明できなくなっています。例えば、マルコ・ルビオ(米国務長官)が2026年2月に行われたミュンヘン安全保障会議で「西洋文明」という言葉を使った時、彼はケルン大聖堂やダンテ、ベートーヴェンのようなヨーロッパ文化の象徴を挙げていました。でも、ヨーロッパの人々自身が、もはやそういう言葉によって完全には代表されていないと感じています。

日本は「西洋」か
ガブリエル では、「西洋」とは一体何なのか。日本は、その問題を考えるのにうってつけな存在です。日本は西洋なのか、それとも違うのか。日本は明らかに高度に近代化された社会です。東京を歩いて、「ここはグローバル・サウスだ」と考える人はいないでしょう。でも同時に、日本は完全に「西洋」でもない。ではアジアかというと、歴史的に見ても、日本は「アジア」という概念そのものとも複雑な距離を保ってきました。
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