先進国では子宮頸がん撲滅が見えてきた。ところが日本は2歩も3歩も遅れている。なぜ日本ではワクチン接種が進まないのか?
吉村氏
子宮頸がんの若年化
日本におけるHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンの接種率は、ここ数年1 %以下の極めて低い水準にとどまっています。私は1人の産婦人科医として、この状況を座視してきた責任を痛感しています。率直に言えば、将来を担う世代に頭を下げて謝りたい気持ちです。
HPVワクチン接種は、日本ではバッシングの対象とされてきました。今回、私がその有効性や安全性について触れることで、大きな非難を浴びる可能性もあります。しかし、非科学的な誤解を放置したままでは、世界で日本だけ、子宮頸がんが増加する国になってしまいかねません。
子宮頸がんを予防する効果があるとWHO(世界保健機関)が認めているのがHPVワクチンだ。日本でも厚生労働省は2013年から、小学6年生から高校1年相当の年齢の女子を対象に無料でワクチンの定期接種をはじめた。
ところが、接種後に様々な症状(副反応疑い)を訴える声が上がり、メディアでも“薬害”として大々的に報じられた。その結果、厚労省はわずか2カ月で接種の積極的勧奨を中止。70%あった接種率は1%以下に落ちたまま、現在に至っている。
そもそも子宮頸がんとはどんな病気なのか。HPVワクチン接種によって本当に予防できるのか。そして接種後に生じた症状をどう考えればよいのか。長年、産婦人科医療や行政に携わってきた慶應義塾大学名誉教授の吉村泰典氏が、子宮頸がんとHPVワクチンを巡る現状について語る。
子宮の入り口付近を頸部と言います。ここにできたがんが子宮頸がんと呼ばれるものです。
私が医者になったのは1975年ですが、その頃、子宮頸がんを発症する年齢のピークは60〜70歳台でした。ところがその後若年化が進み、20〜30歳台の若い女性に増え、現在は30代にピークが移っています。妊娠時に検診で見つかれば、最悪の場合、妊娠継続を断念しなければなりません。そのため、子宮頸がんは俗に「マザーキラー」と呼ばれます。若年化が進んだため、発症と出産が重なるケースもしばしばあります。
よく知られているのは女優の向井亜紀さんの例でしょう。彼女は妊娠時に子宮頸がんが発見され、苦渋の選択後、妊娠継続を諦め、妊娠16週で子宮全摘出手術を受けました。がん治療後、卵子を採取して体外受精を行い、その受精卵をアメリカの代理母に移植して出産してもらっています。
子宮頸がんは、本当に難しい選択を強いられる病気です。赤ちゃんがお腹の中で大きくなるまで手術は先延ばしにしたい。その一方、がんの進行を考えればなるべく早く腫瘍を切除する必要がある。妊娠40週前後で出産するのが一般的ですが、赤ちゃんも母体も救えるように、何とか30週前後まで待って子宮の摘出手術を行った例や、患者さんが悩み抜いた末に出産を断念した例を、いくつも私は診てきました。
患者数増加と若年化の懸念
がんの中でも子宮頸がんは近年、際立って増加しています。国内で子宮頸がんにより亡くなるのは年間約3000人。1日に10人近くの女性がこのがんによって亡くなっている計算です。頸部の組織の中に腫瘍が入り込んでいる「浸潤がん」の人が年間約1万人、組織の表面だけに腫瘍が留まっている「上皮がん」まで含めると約3万人が子宮頸がんと診断されています。
その主要な原因は子宮頸部に感染するHPVです。それが明らかになったのは、比較的最近のことです。1983、4年にかけて、ドイツのウイルス学者ハラルド・ツア・ハウゼンらが子宮頸がんの組織からHPVの16型を分離し、がんの原因であることを突き止めました。この業績で、ツア・ハウゼンは2008年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
HPVの感染経路は性的接触です。性行為があれば男性も女性も感染する可能性があります。HPVそのものはありふれたウイルスで、感染しても、多くの場合、免疫系が正常に働いて、ウイルスの増殖は止まります。しかし1割の感染者では、ウイルスが増殖し続けます。その細胞が、軽い異常である軽度異形成を起こし、さらにその一部が重い異常である高度異形成や上皮内がんを起こします。検診を受けなかったり、受けても高度異形成や上皮内がんが見逃されたりすると、子宮頸がんに進行する場合があるのです。
子宮頸がんの若年化が進んだ背景には、セクシャルデビュー(性交開始)の低年齢化も影響していると考えられています。HPVワクチンの定期接種の対象が、小学6年生から高校1年生までの女子に設定されているのは、性的接触によって、ワクチンで予防できる型のHPVに一度感染してしまうと、HPVワクチンの効果がないからです。
先進国では子宮頸がん撲滅も近い
2019年2月までに92カ国がHPVワクチンを公費による予防接種プログラムとして導入しています。世界に先駆け2006〜8年にこのプログラムをはじめたフィンランドやアメリカでは、すでに子宮頸がんの罹患の減少が確認され始めています。
オーストラリアでは子宮頸がんを引き起こす型のHPV感染率が77%低下し、子宮頸がんの前段階である高度異形成の発生率もビクトリア州の18歳以下の女子で約50%減少しています(オーストラリアがんカウンシル「Success of National HPV Vaccination Program」より)。
接種者が増えることには、ワクチンを打った当人のがん罹患を防げることのみならず、もっと大きなメリットがあります。接種者が集団の7、8割を超えると、ウイルスに感染する機会自体が減り、ワクチンを打ってない人のウイルス感染率まで減ってくるのです。これを「集団免疫効果」と言います。実際、無償接種の対象者の7割以上が接種しているオーストラリアやスコットランドでは集団免疫効果が現れています。
2018年10月には、ランセット・パブリック・ヘルス誌に、オーストラリアでは子宮頸がんが2020年頃までに希少がんになると報告されました。希少がんとは、10万人当たり6人未満が罹患するがんのことです。2028年頃には排除に相当する10万人当たり4人未満まで、さらに2066年頃までには10万人当たり1人未満まで減る――つまり子宮頸がんは撲滅されるとの予測も合わせて報告されています。他の先進国でも今世紀中に子宮頸がんは撲滅できると見られています。なお、日本における子宮頸がん罹患率は、10万人当たり16人です(国立がん研究センターの2014年データ)。
ワクチン接種が進んでいるのは先進国だけではありません。HPV感染率が高く、子宮頸がんも多かったアフリカ諸国も積極的にワクチン接種を進めています。ボツワナ、モーリシャスは接種率70%以上、ルワンダに至っては90%程度の接種率になっています。いずれこれらの国々でも子宮頸がんは劇的に減る見込みです。
日本では接種率わずか0.6%
翻って日本はどうか。2013年4月、予防接種法に基づく定期接種がはじまり、小学6年生から高校1年生相当の女子は誰でも無料で接種できるようになりました。接種努力義務が定められている定期接種のカテゴリーに入っているのは、HPVワクチンの他、BCG、麻疹ワクチン、風疹ワクチン、水痘ワクチンなどがあります。個人的な予防に重点が置かれるカテゴリーに分類されるインフルエンザワクチンなどよりも、HPVワクチンは重要性が高いと位置づけられているのです。
ところが、接種後に様々な症状が出たとする報告が相次ぎました。激しい頭痛、四肢の麻痺などの症状に苦しむ女性たちの様子を報じたテレビのインパクトは大きく、厚生労働省は定期接種開始からわずか2カ月で積極的勧奨を差し控え、接種対象年齢の女子がいる世帯に予診票など書類を送付して接種を促すことを止めてしまいました。ただ、定期接種の位置づけは変わらないので、対象年齢の女子は今でも無料で接種することはできます。しかし、接種率は冒頭に述べたように1%以下、だいたい0.6%程度です。
HPVワクチン接種プログラムを導入した国では高い接種率が得られており、70%以上の接種率を実現している国も多く存在します。子宮頸がんの撲滅も視野に入れる国もある中、このまま日本で低接種率が続けば、今後も年間約3000人が子宮頸がんにより命を落とす恐れがある。これは異常と言うべき状況です。
検診を受けていればワクチンは必要ない、と考える人もいます。欧米の多くの国では60%以上の受診率ですが、日本では40%台と低いのが実状です。特に20歳台では約20%程度。受診率を上げる必要があるのは間違いありません。
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source : 文藝春秋 2020年3月号