芸能人枠の小説家

巻頭随筆

尾崎世界観 ミュージシャン
エンタメ 音楽 読書

 2020年12月18日。第164回芥川賞候補が発表された。尾崎世界観が芸能人枠で芥川賞候補になったと言われていると知ったのは、エゴサーチでだ。やめておけば良いのに、ついやってしまった。エゴサーチは、古い居酒屋に入った際、つい剥き出しになった厨房を見るあの心理によく似ている。汚れたポリバケツや黒ずんだ床を見ては食欲を擦り減らすのに、どうしても反射的に目が行ってしまう。そこにあるのなら、確かめないと気が済まない。もちろん後悔はする。でも、ただで終わらせるわけにはいかない。中にはきっと良い意見だってあるはずだからだ。傷をつけるのがエゴサーチなら、その傷を癒すのもまたエゴサーチだろう。傷口に塗る薬を求めて更に検索を続けてみると、どんどん悪い意見が出てくる。薬を探しているうちに、傷口はもう取り返しがつかないほど広がっている。時々、湿布程度の慰めを見つけても、もう手遅れだ。ゴキブリと一緒で、やっぱり1匹居たら100匹居る。前置きが長くなったけれど、それでも余り有るほどの喜びがあった。芥川賞候補になったという知らせを受けたあの日、やっと書く事を許されたと思った。

 本格的に小説を書き始めた6年前、ミュージシャンとして行き詰まっていた。ある日を境に、思い通りに歌が歌えなくなったからだ。頭では理解しているのに、歌い始めると声が詰まって上手く出せない。何度練習しても、息は正しい声にならない。頑張れば頑張るほど、なぜだか首の筋肉が硬直してしまう。自分が作った歌の歌い方を忘れた。

 病院で診察を受けてもどこにも異常は無い。ありとあらゆる薬を飲んで、ボイストレーニングやマッサージ、気功にも行った。蜂蜜を舐めた。漢方を飲んだ。ヨガマットの上でストレッチをした。脇腹をドラムスティックでゴリゴリ擦った。舌の裏を引っ張って爪楊枝で刺激した。その時やってみて良かったものを手当たり次第取り入れるせいで、ライブ前にこなす決まり事はどんどん増えていった。もう何かの病気であって欲しい。とにかく、この最悪の出来事に名前が欲しかった。

 来る日も来る日もまだ歌えない。それでも、ライブはやってくる。ステージに上がって、またマイクの前で恥をかく。とぼとぼと歩く楽屋までの帰り道、どこからか乾いた諦めが込み上げてくる。

 この事で何より苦しいのは、それを言葉にできないという事だった。歌は言葉にできないからこそ多くの人を惹きつける。だから、歌えないという事も言葉にはできない。一度落としたら、もう取り返しがつかない。喉の不調だ。やる気がない。ポリープでもできてるんじゃないか。好き勝手に言われているけれど、どれも違う。でも、わからない。確かにここにあるのに、この苦しみも悲しみも言葉にして伝えられない。だからこそ、それを書く事を選んだ。小説を書くという事は、できないという事の連続だった。そして、その事に救われた。自分にとって歌えないという事は、できる事ができないという事だ。でも小説はできない事ができないという事だ。その当たり前が、置き場のない気持ちを受け止めてくれた。

 だから、歌えないという事が、書く事そのものだった。

 そんな中、新型コロナウイルスの影響でライブができなくなった。深刻そうな顔をしてメディアで現状を嘆いたりしながら、心のどこかでは安心してもいた。思い通りに動かない体と離れて、歌う事を休める。そんな甘えが日に日に膨らんでいった。それと同時に、今だと思った。今こそこの逃げ道で勝負しようと、小説に打ち込んだ。歌えないからこそ、その歌えない歌を書こうと思った。

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source : 文藝春秋 2021年4月号

genre : エンタメ 音楽 読書