著名人が母親との思い出を回顧します。今回の語り手は、釈徹宗さん(僧侶)です。
私の母は平成30年の12月に今生の息を引き取りました。満81歳でした。60歳を過ぎたあたりから、次第に自らの死への準備を始めていましたね。当時はまだ終活などという言葉もありませんでしたが、自身の身仕舞いについてはよく考えていたようです。母が往生した日、久しぶりに母の部屋へ入ると、実にきちんと整理されており、納棺装束や遺影も準備されていました。
母が息を引き取る前夜のことです。肺の機能が落ちて入院していた母は、通常の呼吸も苦しい状況で病院のベッドの上に横たわっていました。家族や親類や友人が交替で付き添っていたのですが、たまたまその時は私ひとりがベッドサイドにいました。
大学の勤務の帰りに病室へ立ち寄ったものですから、私はどうも小腹がすいていたようです。お見舞いにもらったお菓子などを食べていたら、母が起き上がってベッドの横にある戸棚を開けようとしたのです。そして、息も絶え絶えの中、戸棚の中に果物があるからそれを食べろと言いました。
驚きましたね。そもそも「私がお菓子を食べているのによく気がついたな」と思いました。もう、眼は閉じたままでしたし、身体も思い通り動きにくい状況だったのですから。
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source : 文藝春秋 2021年4月号