ふしぎなおもち

ハコウマに乗って 第2回

西川 美和 映画監督
ライフ 社会

 広島に住む大正14年生まれの伯母は、物忘れが多くなった。

 子供がおらず、大学で英語を教えていた夫は20年前、夕餉の卓でおちょこ一杯の日本酒を「美味しいですねえ」と舐めながら眠るように逝き、以後は小さな戸建に一人で暮らしている。

 超がつくほどの綺麗好きで、帰省したおり手土産を持って訪ねても、台所の調理台、廊下、家具調度品、何もかもがピカピカに磨かれて、玄関には季節の花が生けられている。90を過ぎても足腰は強く、私が東京に戻ろうとするのを見かけると、ポチ袋に小遣いを包み、軽い足取りで走ってきて手に握らせた。おばちゃん、私もう五十路が見えてるのに……。「ええんよ、持っちゃ死なれんのじゃけえ」。

 しかし数年前から物覚えが怪しくなってきた。私は脚本を書く時、実家で長逗留するのだが、その間、伯母と出くわすたびに、「ありゃ! 帰ったんね!」と新鮮に驚くのだ。そして、呼び止める声も聞かずに家に駆けて戻っては、またポチ袋。

「あんた、監督なんかやってるより、よっぽど実入りがいいじゃないの」と母に嫌味を言われながら、私は伯母の短期記憶――新しくインプットされる情報の記憶装置が衰えてきていることをさとった。昔からの習慣や知識はすべて体に染みついている。規則正しい生活のルーティン、家事の手際の良さは変わらない。しかし新調した電化製品はしまい込まれ、私の兄の小学2年の息子は、今だにヨチヨチ歩きだと思っている。おそらく5、6年前の時点で伯母の脳は新たな記憶を受け付けるのをやめてしまったのだ。

 認知症のテストを受けたら、進行を抑えるパッチ薬を処方されたが、「これまで使ってなかった薬を貼る」という新習慣はルーティンに定着しない。母が毎日背中に貼りに通っていたが、新型コロナウィルスが出現し、通院も途絶えたそうだ。

 それから1年が経ったが、伯母の世界にコロナはない。毎日居間のコタツで朝刊を読み、テレビの情報番組がつけっぱなしになっているが、その口から「コロナ」という単語は出ない。週に一度、母が車でスーパーへ連れて行く際にはお化粧をし、スカーフも巻いているのに、マスクは忘れて家を出てくる。「お義姉さん、今はこんなだから、マスクしようね」と使い捨てマスクを手渡すと「そうだった」とうっかりを装うが、本当はよく分かっていないと思う。伯母は社会からは隔絶されているが、何の不安もなさそうだ。

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source : 文藝春秋 2021年4月号

genre : ライフ 社会