ジャーナリストの大西康之さんが、世界で活躍する“破格の経営者たち”を描く人物評伝シリーズ。今月紹介するのは、オズレム・トゥレチ/ウール・シャヒン(Özlem Türeci/Ug˘ur Şahin、バイオンテック創業者)です。
オズレム・トゥレチ(右)とウール・シャヒン
「160万人以上の命を奪った病気に対して、人類が初めて効果的な反撃を開始した時、そのワクチンを開発した会社の共同創業者たちは、世界中の規制当局に提出する書類の作成に忙殺されており、英国人のマーガレット・キーナンが世界で初めてワクチンを接種する決定的なテレビ映像を見逃した」
2020年12月、英経済紙のフィナンシャル・タイムズ(FT)はこんなエピソードを添えて、トルコ系ドイツ人のオズレム・トゥレチ博士、ウール・シャヒン博士夫妻を2020年の「今年の顔」に選んだ。世界に先駆けて新型コロナウイルスに有効なワクチンを開発した功績を讃えてのことである。
夫婦が2008年に設立したバイオンテックは、先月号に登場したmRNA(メッセンジャー・リボ核酸)ワクチンの生みの親、ハンガリー出身の女性科学者のカリコー・カタリンが副社長として籍を置くドイツのバイオ・ベンチャーである。同社は米メガファーマ(巨大製薬会社)のファイザーと提携して世界各国に新型コロナ対策の切り札となるワクチンを供給している。日本で接種が始まったのもこのワクチンだ。
FTが指摘するように、人類対コロナの壮絶な戦いの前線に立つ夫婦は多忙を極め、この1年というもの2人のプライベートな時間は、自宅のあるドイツのマインツ市で朝の5時から軽いジョギングをする小一時間に限られている。
この2人が出会っていなければバイオンテックは誕生しておらず、米国で活動の場を失いそうになっていたカリコーがドイツに渡ってmRNAの研究を続けることもできなかった。出会いは1990年代の初頭。トゥレチがドイツ南西部のホンブルクにあるザールラント大学病院の血液がん病棟で研修医として最後の年を過ごしている時だ。シャヒンはこの病院で医師として働いていた。
2人は自分たちが同じような境遇であることをきっかけに付き合い始めた。2人とも両親が経済的機会を求めて、トルコからドイツに移住した移民2世で、患者の治療に直結する応用科学に関心を持っているところも同じだった。2人は2002年に結婚した。研究に没頭するあまり、婚姻届を提出した日にも研究室に戻ったカップルの誕生は、その後の展開を考えれば、世界中に祝福されるべき出来事だった。
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source : 文藝春秋 2021年6月号