今年の1月に『タイム・スリップ芥川賞』という本を出した。博士と少年がいろんな時代を旅して、各時代の代表的な芥川賞作家に会いに行くという内容だ。日本の戦後史と文学史が同時に学べる画期的な本になったと思う。
芥川賞は日本で1番有名な文学賞で、受賞作が発表されると必ずニュースになる。しかし、高い知名度とは裏腹に、賞の実態はあまり知られていないのではないか。芥川賞は1935年からはじまり、90年近くつづいている日本最長の文学賞でもある。その長い歴史を一望できる本を作りたかった。芥川賞自体が波乱万丈なドラマであることを伝えたかったのである。
わたしと芥川賞の付き合いは、以前に出版した『芥川賞ぜんぶ読む』からはじまる。この本はタイトルのとおり、芥川賞の受賞作をすべて読んで解説するというもの。出版時点で受賞作の総数は180作品。膨大な数だ。
そのような本を出すのだから、さぞかし昔から芥川賞作品を好んで読んでいたのだろうと思われるかもしれない。実はぜんぜんちがう。話題になった受賞作を読むことはあったが、それでも片手で数えるほどしか読んだことがなかった。
「芥川賞の受賞作をすべて読み、すべて解説する」。そんな企画書をウェブメディアに連載案として出した。著述業者として目立ちたかったので、人から「えっ」と思われるようなチャレンジをなにかしたかったのだ。芥川賞を選んだのは「有名だけど、あまり知らない」から。それ以上の深い理由はない。企画を提出すると案の定、「面白そうですが、大丈夫ですか?」と聞かれた。「ええ、大丈夫です」と言った。その根拠はない。なにかがわたしを突き動かしていた。このときから芥川賞の魔力にとりつかれてしまったのかもしれない。
連載がはじまり、それを読んだ編集者から声をかけられ、書籍化することが決まった。
さて、出版が決まったのはよかったが、それは締切が決まったことも意味していた。そのとき、わたしは会社員だった。著述業は副業だったのだ。しかし、会社に行きながらだと、どう考えても時間が足りない。なにせ芥川賞は180作品もある。そこでえいやっと会社を退職した。芥川賞を読むために会社をやめた人間は、わたし以外にいるだろうか。
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source : 文藝春秋 2022年7月号