今から50年前、反乱の季節の終わりに日米で大ヒットした第一級エンターテインメント。だが、その内実は真逆だった。
反社会的な集団を描いた映画
2022年は『ゴッドファーザー』(フランシス・フォード・コッポラ監督)が、23年は『仁義なき戦い』(深作欣二監督)が公開されてから50周年となる。ともにマフィアやヤクザを描いた特異な「ジャンル映画」でありながら、『ゴッドファーザー』はAFI(アメリカン・フィルム・インスティテュート)や英国映画協会が選んだ世界映画のベストテンにランクインし、『仁義なき戦い』は「キネマ旬報」の「オールタイム・ベスト映画遺産200(日本映画篇)」(09年)で5位に選ばれた。
反社会的な集団を描いた映画がなぜこれほどまで広範に高い評価を得ているのか。そもそも『ゴッドファーザー』と『仁義なき戦い』が立て続けに製作されたのは偶然なのか、はたまた時代の必然なのか。半世紀を遡り、それを明らかにしたい。
『ゴッドファーザー』の企画は、1969年に作家マリオ・プーヅォの同名小説(当初の題名は『マフィア』)がベストセラーになったことから始まった。
「『マフィオーゾ』(シチリアでのマフィアの呼称)の起源は、19世紀にシチリアの大土地所有者が小作人を管理・監視するために雇った武装集団『ガベロット』です。ガベロットは暴力と脅迫によって小作人だけでなく地主も脅し、富を蓄え、しだいにマフィオーゾと呼ばれ、政治家と癒着し、中央政府とも緊密な関係を作り上げます。
彼らはムッソリーニのファシズム政権下では徹底的に弾圧されましたが、第2次大戦末期の連合軍のシチリア上陸・統治に協力することで、様々な利権を得て力を盛り返し、麻薬の輸出などで勢力を拡大していきました」と『シチリア・マフィアの世界』などの著作があるイタリア近現代史の専門家、藤澤房俊は語る。
映画産業が斜陽となる中で
19世紀末から20世紀にかけて、多くのシチリア人が一攫千金を夢見てアメリカに渡った。その中にはマフィオーゾもいた。20年代の禁酒法時代に密造酒の製造・輸出で富を蓄えて伸し上がったマフィアの中には、『ゴッドファーザー』にモー・グリーンとして登場する、ラスベガスを作った男ベンジャミン・“バグジー”・シーゲルや、『PARTⅡ』のハイマン・ロスのモデルであるユダヤ人マフィアのマイヤー・ランスキーがいた。
彼らが密造酒作りを始めた20年、マリオ・プーヅォはイタリア系移民の子供としてニューヨークのヘルズ・キッチンで生まれた。ヘルズ・キッチンは現在では小室圭、眞子夫妻が住む瀟洒な住宅街として知られるが、20年代はスラム街だった。しかし、プーヅォはアウトロー出身の作家ではない。
イタリア系アメリカ人の一家を描いた『The Fortunate Pilgrim』(65年)を読んだ出版社側から、「『マフィア』が登場していたらもっと面白い本になったのに」と示唆を受け、プーヅォは徹底した調査を元に『マフィア』を書き始める。そして彼は、完成前にパラマウント映画に売り込んだ。だが、当時パラマウントは危機的な経営状況にあった。63年、アメリカの映画館入場者数は史上最低となり、60年代後半、アメリカの大手映画会社、ユニバーサル、ユナイト、ワーナー・ブラザースは映画の製作・配給だけでは経営を維持できず、金融、不動産、TV制作会社などを複合的に営む巨大企業の傘下に入った。同様にパラマウントも66年にG&W社(工業製品、自動車部品、製紙などを手がける多角的企業)に吸収合併され、製作本数を削減し、撮影所の一部を売却するなど合理化を図っていた。
そうした厳しい状況にありながら、重役のピーター・バートと製作部長のロバート・エヴァンズは、ヒット作を作るには優れた原作を手に入れなければならないと考える。彼らは『ある愛の詩』とともに『マフィア』にその可能性を見出し、プーヅォがこの本を書き上げるまでの足かけ3年、小切手を送り続け、小説の脚本化権を買い取った。
イタリア系を抜擢
69年、『ゴッドファーザー(名付け親)』と改題された『マフィア』はパットナム社から出版されるやハードカヴァーで500万部、フォーセット社から出たペーパーバックでは900万部を超える出版史上空前の売り上げを記録した。しかし、小説がベストセラーになった頃、パラマウントは映画製作に対する熱意を失っていた。シチリアからアメリカへ移住したマフィアの兄弟愛を描いた『暗殺』(69年、マーティン・リット監督)がまったく当たらず、莫大な借金が残り、マフィア映画の興行価値を疑問視せざるをえなかったからだ。しかし、他の映画会社が興味を持ち、権利を譲って欲しいと次々申し出てくると、パラマウントはベストセラーの知名度だけを利用し、原作の舞台である40年代を現代に移して低予算で作ろうと考えた。
最終的に、パラマウントが監督をフランシス・フォード・コッポラに委ねたのは、それまで興行的に失敗したマフィア映画のどの作品も、出演者や監督がイタリア系でなかったことに気付いたからだ。コッポラはイタリア系アメリカ人の両親のもと、39年にデトロイトで生まれた。『パットン大戦車軍団』(70年、フランクリン・J・シャフナー監督)の脚本でアカデミー賞を受賞したものの、それまで撮った5本の映画はいずれも当たらず、自主製作映画を作るため設立した会社(アメリカン・ゾーイトロープ)には6000万円もの借金があった。
原作を読んだコッポラは「安っぽく煽情的だ」と落胆し、監督を断わった。「ところがマリオに会って初めて、彼の魅力に惹きつけられたんだ。彼には親戚のおじさんのような親しみやすさがあり、まっとうで気さくな素晴らしい人物だった」(コッポラインタビュー、『kotoba』22年春号)と語る。
職人芸で格調高く
コッポラとプーヅォは、複数の人物が並行して描かれる原作を、脚本ではマイケル(アル・パチーノ)の物語を中心に据え、近代劇の骨法に則った「三幕劇」に仕立てた。コッポラはまた、原作の時代設定(40年代)の再現、原作通りのニューヨークでのロケ、マーロン・ブランドの出演、そしてマイケル役へのアル・パチーノの起用を頑なに主張した。低予算のギャング映画にしたいパラマウントと闘い、G&W社の取締役会長、チャールズ・G・ブルードーンを粘り強く説得した。
そして、満足できるカットを撮れるまで延々とテストを繰り返し、撮影開始後2週間ですでに2日以上スケジュールを遅らせた。苛立ったパラマウント側は、監督を『欲望という名の電車』(51年)や『波止場』(54年)でブランドと組んだ、コッポラよりも30歳上のエリア・カザンに代えようとしたが、アル・パチーノがレストランで、敵役のボスであるアル・レッティエリと悪徳刑事のスターリング・ヘイドンの額を撃ち抜くシーンのラッシュを観て、コッポラの演出にみなぎる力感と瞬発力に驚き、翻意した。
撮影監督のゴードン・ウィリスは、「40年代のニューヨークの空気感」をゴールデン・アンバー(琥珀色)の諧調で表現し、繊細な照明で静謐さと漆黒の闇を映画に付け加えた。衣裳のアンナ・ヒル・ジョンストンは厳密な時代考証で当時のスーツやドレスを誂え、プロダクション・デザイナーのディーン・タボラリスは深く脚本を読み込み、暴力が起こる直前の画面にかならず果物のオレンジを置き、「死や暴力の意識づけ」とした。
コッポラは、コルレオーネ家をあたかもメディチ家のように、マフィアの抗争をオペラのごとく、ギャング映画を西欧絵画的な光と影で撮った。このようなヨーロッパ映画的格調と、スキャンダラスで泥臭い演出が混淆しているところにコッポラの美意識が窺える。
72年3月15日、『ゴッドファーザー』の初日、どしゃぶりの雨の中、朝8時からニューヨークの上映館の前にはブロックを1周する列ができていた。製作中にマフィアのボス、ジョセフ・コロンボが狙撃され、公開後にマフィアのジョセフ・“ジョーイ”・ギャロが暗殺されたことも映画の恰好の宣伝になり、「私は彼らが断わりきれない申し出をするつもりだ」という劇中のセリフは何百万というバッジ、マグカップに印刷され、『ゴッドファーザー』はアメリカの興行収入記録を塗り替え、その記録は『ジョーズ』(75年、スティーヴン・スピルバーグ監督)の出現まで破られなかった。
アメリカ、カナダで『風と共に去りぬ』の持つ興行記録を更新し、翌年のアカデミー賞で作品賞、脚色賞、主演男優賞(マーロン・ブランド=辞退)に輝いた『ゴッドファーザー』は、オーストラリア、ヨーロッパに先駆け、72年7月15日に日本で公開された。その夏、日本でも『ゴッドファーザー』が社会現象になり、7週間で100万人の動員を記録した。
マーロン・ブランドとアル・パチーノ
©PARAMOUNT PICTURES Album
「君がわしの後継者だ」
71年8月、『ゴッドファーザー』のシチリアロケのあと、パラマウントはコッポラに続篇の脚本執筆を依頼し、全面的な決定権を与えることを約束したが、コッポラは「続篇はかならず1作目より劣る」と断わった。それを聞いたチャールズ・G・ブルードーンはコッポラを怒鳴りつけた。「いいか? 私たちは歴史を作れるんだ。今までに、オリジナルより優れた続篇を作った奴はいない。だが、君ならできる!」。
コッポラは「第1作よりも野心的で、美しくて、1歩進んだ作品」とは何か思いあぐねた。プーヅォの提案により、マイケル(アル・パチーノ)がライバルを倒して頂点に登りつめるとともに家族を失う物語と、若き日のヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)がシチリアからアメリカに移民し、マフィアとして名を成してゆく物語を1章ごとに交錯させる、商業映画では類例がない斬新な構成を立てた。しかし、テスト試写の際、観客は2つの筋が並行して進む構成に混乱し、公開直前まで編集作業が重ねられることとなる。
『PARTⅡ』にブランドが出演しないことが決まった時点で、コッポラはマイケルの最大の敵役ハイマン・ロスを演じる、ブランドに匹敵する存在感の俳優を探し求めた。パチーノの提案で、コッポラはアクターズ・スタジオの主宰者で、ブランド、パチーノやポール・ニューマンなどを育てたリー・ストラスバーグにこの役を委ねる。74歳のストラスバーグが演ずる、“陰謀と駆け引きの天才”マイヤー・ランスキーをモデルにしたロスとアル・パチーノの立て引きが『PARTⅡ』の見所である。
ロスは、前作で親友のモー・グリーンをマイケルに殺された恨みから、マイケル宅にマシンガンを乱射し、幹部の命を狙う。しかし、マイケルからキューバの事業への出資を引き出したい思惑もあり、ハバナを訪ねたマイケルを「君がわしの後継者だ」と歓待する。にこやかに振舞いつつ、眼裏に底知れぬ冷たさを湛えたストラスバーグの芝居が何とも奥深い。
「部下を殺したのは誰だ?」とマイケルに訊かれ、ロスは親友が殺されたときの心境を打ち明ける。「話を聞いた時、わしは怒らなかった。そして自分に言い聞かせた。これが自分で選んだビジネスなんだ。誰が命じたかは聞くまいと。なぜなら、そんなことはビジネスとは関係がないからだ」。このセリフには、ひとつの稼業を選び、その稼業に生きる者の覚悟が宿る。マイケルはロスから「治者」になるためのマキャベリズムと孤高さを学び、やがては目の上のたん瘤であるロスを殺す。
若き日のドン役ロバート・デ・ニーロ
©PARAMOUNT PICTURES/Album
バチカン法王庁の闇に斬りこむ
74年に公開された『PARTⅡ』は、アカデミー賞作品賞、脚色賞、監督賞、助演男優賞を受賞し、前作よりも高く評価する批評家も少なくなかったが、アメリカでの配給収入は前作には及ばず、日本での配給収入も前作の40パーセントに留まった。しかし『PARTⅡ』が描いたイタリア系移民の苦闘の歴史はマイノリティたちの共感をも集め、1976年の建国200年(バイセンテニアル)祭に向けて「多民族統合」に向かおうとするアメリカで、『ゴッドファーザー』2部作はいわば「国民映画」になった。
88年に『ゴッドファーザーPARTⅢ』の製作が発表されたのは、これまで続篇を作る気がなかったコッポラが1200万ドルの負債を抱えて破産寸前まで追い込まれ、オファーを受けざるを得なかったからだ。
物語は、65歳になったマイケルがビジネスの合法化を目指し、罪を懺悔し、壊れた家族との絆を取り戻そうとする話に、バチカン法王庁のスキャンダルが絡む。コッポラは、78年に実際に起きた、在位期間がわずか33日での法王の急死を、バチカン内の守旧派による“毒殺”と設定し、82年のバチカン銀行の資金運用を担当していたアンブロシアーノ銀行頭取の自殺を、マイケルが大司教に支払った資金を彼が持ち逃げしたために“処刑”されたとし、人物や企業のモデルが特定できるように描いた。
天皇、四大銀行、宗教などタブーが多い日本でヤクザ映画が差別問題や政財界との関わりを描くとき、否応なく暗示的な表現となるのとは対照的だ。
『PARTⅢ』は、ロバート・デュヴァルがギャランティの問題で出演しなかったことで当初の脚本を急に書き変えざるをえず、人物描写ももの足りない。しかし、脚本の弱さを補って余りあるのが、マフィアとバチカンの血で血を洗う闘争である。抗争シーンになると途端に映画のアドレナリンが沸騰する。
白眉はラストだ。三角関係の縺れから決闘と殺人が起こる、ピエトロ・マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の上演とバチカン関係者やコルレオーネに敵対するマフィアの殺戮のクロス・カッティングの美しさ。
そして、イタリアの鬼才監督、ピエル・パオロ・パゾリーニの『アッカトーネ』(61年)の主演男優フランコ・チッティが第1作のマイケルの護衛役の18年後の姿として、親分を殺されたシチリア・マフィアを演じ、復讐のために銀行家の首をかき切り、血のオペラのフィナーレを飾る。フランコ・チッティはもともとプロの俳優ではない。1950年代初頭、社会からもさらに共産党からも放逐されてはぐれ者となったパゾリーニがローマのスラム街に沈潜していた時期に知り合った、前科持ちの、まさにアッカトーネ(物乞い)的、ラッツァローネ(ならず者)的な友人であった。
現代史の闇に斬りこんだ果敢さとオペラ的な構成の見事さにおいて、『PARTⅢ』は3部作の見事な完結篇であると思えるが、批評も興行成績も前2作に遠く及ばず、アカデミー賞も無冠に終わり、コッポラは2020年に『PARTⅢ』を再編集し、弱点を補って再公開した。
第3部が前2作に比べ観客の支持を得られなかったのは、「冷酷非情なマイケル」に魅せられた観客が「報いを受け、罪の意識に苦しめられるマイケル」の姿を見たくなかったからだろう。加えて、マイケルの家父長的な男性優位主義は90年代にはすでに時代遅れで抑圧的なものと感じられたのではないか。
ドンの娘役タリア・シャイア
©PARAMOUNT PICTURES Album
700枚の獄中手記
72年春、東映京都撮影所で『ゴッドファーザー』をアメリカで観てきた高倉健がプロデューサーの俊藤浩滋に「凄い映画だ」と興奮してしゃべっていた、と脚本家の高田宏治は証言する(本稿のための取材による)。日本でもっとも『ゴッドファーザー』に衝撃を受け、これを超える日本映画を作ろうと考えた映画人が俊藤浩滋だった。
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source : 文藝春秋 2022年8月号