10本に絞るのは無理だが、20本選ぶならこれしかない。
「知られているようでまったく知られていない」
ジョン・フォードというと、まだお元気だったころの淀川長治先生の姿が目に浮かんできます。現在の「国立映画アーカイブ」がまだ「東京国立近代美術館フィルムセンター」と呼ばれていた時期のことですが、1983年のジョン・フォード監督特集のおり、戦前の日本では公開されなかった『周遊する蒸気船』(1935)を見てその演出ぶりの自由闊達さに心底から感動し、妻ともども興奮をおし殺して1階に降りてゆくと、そこに淀川先生がおられ、センターの職員を前にして何やら饒舌にフォードを語っておられる。そして、こちらの顔を見るなり、あー、ハスミさーんと声をかけられ、握手を求めてこられました。それが初対面だったことなどすっかり忘れさせる無類の自然さに、思わず心が踊りました。
すると、淀川先生は、やはりハスミさんは偉い、わざわざこれを見に来てくれたんだからねと笑顔を崩さず、フォードという監督は、知られているようでまったく知られていないのねと喝破される。何しろ、これが日本初上映なんだから誰もが見に来ていいはずなのに、双葉(十三郎)くんもいない。けど、これを見に来ない奴は「もぐり」だといわれてから、主演のウィル・ロジャースがどれほど当時の合衆国民から愛されていたかを滔々とお話しになりました。
実際、『周遊する蒸気船』は、『ドクター・ブル』(1933)、『プリースト判事』(1934)とともに、フォードの「ウィル・ロジャース3部作」の最後の作品で、これを撮った直後に、ロジャースは飛行機事故で他界してしまいます。その3本とも、戦前の日本では公開されていなかったのだから、フォードがよく知られているようでじつはあまり知られていないという淀川さんの言葉は、まったく正しい。
傑作『香も高きケンタッキー』
当時のわたくしは、映画について難解な言辞を弄する面倒な男として、戦前派の批評家たちからは煙ったがられておりました。しかし、淀川さんは、貴方は映画をよーく見とられる。しかも、フォードの日本ではほとんど無名のこの作品まで見てくれたんだから、偉いわ。ほんとによく見て下さいました、とまるで上映の主催者であるかのように礼までいわれたのです。そのとき、わたくしは、その後に淀川先生と、山田宏一さんを交えて共著『映画千夜一夜』(中央公論社、1988)を出すことができるなどとは考えてもおりませんでした。それもまた、ジョン・フォードのお陰なのです。
では、『周遊する蒸気船』を、なぜ、ジョン・フォード作品の第2次世界大戦前のベスト10に入れなかったのか。この2つのベスト10は、韓国の優れた映画雑誌『FILO』に依頼されて拵えあげたものですが、誰が見てもその騒々しい活気のよさで心が騒ぐ『周遊する蒸気船』と異なり、『ドクター・ブル』は、地味ながら演出の妙味で傑出していると判断したからで、そのかわりに『プリースト判事』を挙げてもよかったかと思っています。なお、第2次世界大戦後のフォードの作品のベスト10は『FILO』には送らず、自分用にとっておいたものです。
そこに、なぜ『荒野の決闘』(1946)が入っていないのかと訝る方もおられましょうが、理由はごく簡単なものです。それより優れた作品が、確実に10本以上存在しているから、それを挙げずにおいたまでです。実際、その直前に撮られた『コレヒドール戦記』(1945)と3年後の『アパッチ砦』(1948)の方が遥かに素晴らしい。
そもそも、『荒野の決闘』は、何よりもまず20世紀Foxの作品で、社長のダリル・F・ザナックが自分勝手に仕上げたものにほかならず、同じ社のアラン・ドワン監督の『国境守備隊』(1939)のリメイクでしかありません。公開版には、ほかの監督に撮らせたヘンリー・フォンダの醜いクローズアップさえ含まれており、フォード自身も見直すことはしておりません。したがって、それを彼の戦後のベスト10に入れる気など、初めからありませんでした。
なお、これまた有名な『黄色いリボン』(1949)もそこには含まれてはおりません。それは、わたくし自身が、あの有名な主題歌がどうしても好きになれず、それにふさわしいショットの連鎖に緊迫感がないからです。歌というなら『リオ・グランデの砦』(1950)でサンズ・オブ・ザ・パイオニアーズが月影のもとでジョン・ウエインとモーリン・オハラを前にして歌う《I'll Take You Home Again, Kathleen》の方が遥かに素晴らしい。
しかし、歌も歌われなければ台詞も聞こえはしないのに、言葉の真の意味で美しい知られざる傑作『香も高きケンタッキー』(1925)のMoMA修復版が大きなスクリーンで見られるのですから、「『ジョン・フォード論』刊行記念」として渋谷のシネマヴェーラで行われる「21世紀のジョン・フォード」PartI(7月23日~8月19日)、PartⅡにはぜひともかけつけていただきたい。淀川先生も、ほう、それまで上映するのと、彼の地で微笑んで下さるでしょう。
7月21日発売の著書
ベスト20の見どころ
それでは個々の作品の、ほんの「さわり」だけご紹介しよう。現物はぜひスクリーンでご覧いただきたい。
『鄙より都会へ』(17)
ジョン・フォードの西部劇で、馬に跨がったカウボーイたちが、群れをなしていっせいにニューヨークのブロードウェイを駈けぬけるなどといった光景を、いったい誰が想像できるだろうか。だが、『鄙より都会へ』のフォードは、それを軽々とやってのけてみせる。
『香も高きケンタッキー』(25)
フォードの演出の細部における冴えた繊細さに深く心を奪われずにはいられない。
それには没落した馬主のボーモン氏が、いまは交通整理の警官として働いている元調教師ドノヴァンとともに、重い荷車を引いているかつての競走馬ヴァージニアズ・フューチャーと交差点で偶然にすれ違い、それと気づかぬままに別れてしまうという美しい――映画の歴史でもっとも美しいと断言することに何の誇張もない――シークェンスを思い出してみれば充分だろう。
『四人の息子』(28)
4人の息子の大半を戦争で失った大家族の未亡人が、最終的にはアメリカに渡り、息子夫妻とともに幸福を見いだす。
母親(未亡人)役のマーガレット・マンがまとう大きなエプロンは、他のフォード作品でも反復される主題である。
『戦争と母性』(33)
あまり知られてはいないがこの作家の理解にはきわめて重要な作品。フォードの作品にはこれ1本しか登場していないが、ヘンリエッタ・クロスマンという舞台出身の女優がみごとなその存在感を画面のすみずみにまで行きわたらせている。
『ドクター・ブル』(33)
トーキー初期のフォードの傑作だというにとどまらず、今日の映画史的な視点からしても、ジョン・フォードを代表するもっとも優れた作品の1つだといっても過言でない。
『肉弾鬼中隊』(34)
中近東の砂漠地帯でイスラム系の見えない敵に包囲されたイギリス軍中隊の、ほとんど抽象的な身振りにキャメラを向けた、救いのない乾いた画質が印象的である。
ジョン・ウエインのダンス
『駅馬車』(39)
名高い『駅馬車』の最後の追跡場面は、よく考えてみれば「不自然」きわまりないものである。実際、そこで騎馬を疾駆させているインディアンたちは、もっぱら車内の乗客たちや馭者に狙いを定めるばかりで、馬車を引いて走っている複数の馬に弓矢や銃を向けようとはまったくしておらず、これは、いかにも「不自然」なことというほかはない。
だが、ジョン・フォードにとって、映画という名のフィクションは、そのようないくつもの「不自然さ」の上に構築さるべきものであり、それこそ、フォード的な「不自然さ」の処理の天才的なところなのである。
『若き日のリンカン』(39)
弁護士にもなっていない青年時代のリンカーンを演じるヘンリー・フォンダと、薄命のアン・ラトレッジ役のポーリン・ムーアの川岸における出会いと別れは、フォードにおける「投げる」ことの主題を含んだ、とてつもなく美しいシーンである。
「若き日のリンカン」
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source : 文藝春秋 2022年8月号