金子兜太、大杉漣、野中広務、川地民夫、石牟礼道子

蓋棺録

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 俳人・金子兜太(かねことうた)は、戦後の前衛俳句をリードするとともに、自らの戦場体験を語って平和の価値を訴えた。

 戦時中、主計中尉として赴いたトラック島では、兵士たちが無残に殺され、痩せこけて死んでいった。「私が生き残ったのは運としか言いようがない」。この体験が復員後のモチーフとなる。〈水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る〉。

 1919(大正8)年、埼玉県に生まれる。父は開業医で俳人。小学時代から成績優秀でスポーツ万能だった。旧制熊谷中学(現・熊谷高)をへて旧制水戸高校(現・茨城大)に入ると柔道と俳句に熱中した。〈白梅や老子無心の旅に住む〉が当時の一句。

 東京帝国大学ではマルクス経済学を学ぶ。日本銀行の試験で面接したのは後に総裁となる佐々木直だった。佐々木は趣味が俳句だと知ると近作を聞いた。金子は故郷の風景を詠んだ〈裏口に線路が見える蚕飼(こがい)かな〉をあげた。

 佐々木の雅量のお陰か、意外にも日銀に入行できたが、すぐに召集されて主計科士官として戦場に送り込まれる。悲惨な戦闘の中で唯一の救いは、階級に関係なく批評しあう句会が開けたことだった。

 復員後、日銀に戻るが労働組合の事務局長となり、当時の一万田尚登総裁と激しくやり合う。その後は福島、神戸、長崎と支店回りの左遷人事が続いた。出世など考えずに「日銀を食いものにしよう」と決心して俳句に邁進した。〈彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン〉は長崎時代の作品。

 社会性を持ち込んだ俳句を提唱して、62(昭和37)年、俳誌『海程』を創刊。湿っぽい日本的情緒を嫌って〈三日月がめそめそといる米の飯〉と反発し、また、生命感を強く求めて〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉と詠んだ。「青鮫」とは自分の醒めた魂の象徴であったという。

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source : 文藝春秋 2018年04月号

genre : エンタメ 芸能