『BUTTER』柚木麻子 木嶋佳苗事件とポストモダニズム

ベストセラーで読む日本の近現代史 第49回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
エンタメ 読書

 4月14日、最高裁判所第二小法廷は、埼玉県や東京都などで起きた男性3人の連続不審死事件で一審、二審で死刑判決を言い渡された土井(旧姓木嶋)佳苗被告(42歳)の上告に対して、被告の上告を棄却した。被告は判決の訂正を申し立てたが、5月9日、最高裁第二小法廷は、棄却し、死刑判決が確定した。法務省は、木嶋確定死刑囚が望む刑の早期執行を行う可能性がある。

 読者の批判を覚悟してあえて述べるが、自身の過去の経験から筆者は死刑囚に対して特別の想いがある。筆者は鈴木宗男事件に連座し、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に2002年5月14日から03年10月8日までの512泊勾留された。勾留期間の後半、両隣の独房には確定死刑囚が収容されていた(そのうちの1人は連合赤軍事件の坂口弘氏だった)。「僕はいずれ保釈になって塀の外に出ることができるが、両隣の人たちが外に出るのは、死刑が執行されるか、病死するか、いずれにせよ死体になった後だ」と思うと何とも表現しがたい感情に襲われた。こんな経験から犯罪の態様にかかわらず、死刑囚に感情移入ができるのだ。

 死刑確定が近いと聞いた4月初め、取材で彼女に面会する週刊誌の編集者に1万円分の花とリンゴの差し入れを頼んだ。拘置所では、購入できる果物が限られている。筆者が勾留されていたときリンゴは購入できなかった。リンゴの差し入れは、塀の外に被収容者のことを想う人が存在することを意味する。しばらくして木嶋被告から人づてに「佐藤さんのリンゴについて考えながら眠りについたので、『ヘントの祭壇画』の夢を見た」というメッセージが届けられた。「ヘントの祭壇画」とは、ベルギー第三の都市ヘントの聖バーフ大聖堂の12枚のパネルで構成された祭壇画である。木嶋死刑囚の知的世界を醸し出すメッセージだ。

殺人事件を扱った名著

 この木嶋死刑囚の事件をヒントに書かれた柚木麻子氏の本作品は抜群に面白い。刊行されたばかりだが、殺人事件を扱ったノンフィクション・ノベルの名著として歴史に名を残すことは間違いない。もっとも実際の事件では、練炭による殺人が話題になったが、作品では、死因は睡眠薬の過剰摂取、風呂場での溺死、電車への飛び込みとされ、被告人梶井真奈子(カジマナ)が育ったのは新潟(木嶋死刑囚は北海道出身)とされ、単なる木嶋事件のモデル小説とは位相を異にする、人間存在に鋭く切り込んだ作品になっている。

〈梶井真奈子は一九八〇年東京都府中市生まれ、のちに父親が故郷で祖父の不動産業を手伝うことになり、新潟県安田町に移り住む。母親はフラワーアレンジメント講師。七歳年下の妹と比較的裕福に育つ。高校卒業と同時に大学入学のために上京するも三ヶ月で中退。以来、愛人業を生業として、裕福な初老の男たちによる不思議なネットワークに守られて、定職に就くことなく品川区不動前を拠点に生活してきた二〇一三年、約半年の間に起きた三件の殺人により逮捕される。被害者はいずれも、出会い系や婚活サイトを介して知り合った首都圏に住四十代から七十代の独身男性であり、梶井との結婚を真剣に考えていたという。料理教室の授業料を、家族が怪我をしたから治療費を、などという梶井の要求を受け、多額の金銭を渡している。(略)いずれの事件も物的証拠に欠けたまま、検察側のいびつな精神論に押し切られた形で一審で無期懲役となる。判決が出るなり梶井側は即日控訴し、現在は来年春に控訴審を控え、東京拘置所に勾留中である。〉

 特に重要なのは、一審判決を死刑でなく無期懲役とすることで、事件に関するステレオタイプから自由になり、深い洞察が可能になっていることだ。物語の後半、カジマナが裁判所に提出した上申書か手記か手紙か判別できない文書が挿入される。

〈私は東京の府中で生まれましたが、ものごころついてから育った町は新潟の阿賀野で、新潟酪農発祥の地と呼ばれています。/新潟駅までは車で四十分ほどでしょうか。そこまで出れば大抵なんでも揃います。我が家は遊び好きな父の影響で外食や遠出が好きでしたし、社交的な母はカルチャーセンターの講師の仕事や自身の習い事に熱心で、彼女に付いて新潟市内に出て行くのは日常茶飯事でした。ですから、そこまで田舎に暮らしているという感覚はありませんでした。/でも、冬になると平野はどこまでも雪で覆われ、私たちはあの狭い町に閉じ込められます。世界は静かで、すべてが死んでいるように思えました。そんな中、生命力を放つ場所として記憶に残っているのは、お隣の持ち物だった牛舎です。あたりは一面の白銀でも、あそこは牛の吐く熱い息と体温のおかげで、ほんのりと暖かかった。寒い時期の牛はたっぷりと栄養を溜め込んでいるので、そのお乳は甘く、クリームのようなこくがあります。ミルクはもともとは牛の血液なんですよ。/私にとって乳製品は、命であり、血です。バターたっぷりのお菓子や料理、とりわけバターを多く使うフランス料理が好きで好きで仕方がないのは、この思い出のせいです。雌牛がずらりと並ぶ牛舎をみていると、その臭気や蠅がたかってもものともしない佇まい、大きな歯や突き出た眼球の力強さに、圧倒されました。蠅で真っ黒になった蠅取り紙にはぞくぞくしました。同時に、そこには存在しない、雄牛のことが気にかかりました。妊娠できるだけの精子さえもらえば、異性なんてもうどうでもいい、女だけでうまくやって、喧嘩もせず、命のシステムをうまく回している雌牛が、恐ろしくもなったのです。〉

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source : 文藝春秋 2017年10月号

genre : エンタメ 読書