本書は1965年に刊行され多くの読者に読まれてきた。1967年と2015年の2度映画化されている。一般国民に知らされることのなかったポツダム宣言を受諾し、日本が降伏する際の国家上層部の動き、国体護持のため徹底抗戦を説き、それが受け入れられないとクーデターを起こそうとした中堅将校の動き、割腹自決することによって陸軍の暴発を阻止した阿南惟幾(あなみこれちか)陸相らの行動を、著者の主観や感情を極力排し、当事者の内在的論理が浮き彫りになるように描いたノンフィクションの傑作だ。
本書については、それこそ数え切れないほどの書評がなされてきた。屋上屋を架すことはしたくないので、評者は外交官だった経験を活かし、テクノクラートの視座から本書を読み解いてみたい。
まずは鈴木貫太郎首相だ。当時の首相は、現在のように国会によって指名されるのではなく、天皇の勅命によって任命されるのであるから、民意の代表者ではなく、官僚のトップだ。国家機構の論理を知り尽くしている鈴木は、従来にない「聖断」という形でしかこの戦争を止めることができないという認識を強く持っていた。そして、1945年7月27日に出されたポツダム宣言の受諾を巡る御前会議が8月9日深夜から10日未明に行われたときに勝負に出た。6日には広島に、9日には長崎に原爆が投下され、9日にはソ連が参戦していた。
〈時刻は十日午前二時をすぎた。いぜんとして議論はまとまらなかった。結論のでないままにこの会議は終るのであろう、まさかに票決という強硬手段を首相がとるとも思えぬ。首相がどうしたものか、もてあましているように誰もが考えた。人びとの注意が自然と首相に集った。/そのときである。首相がそろそろと身を起して立ちあがった。/「議をつくすこと、すでに二時間におよびましたが、遺憾ながら三対三のまま、なお議決することができませぬ。しかも事態は一刻の遷延も許さないのであります。この上は、まことに異例で畏れ多いことでございまするが、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結論といたしたいと存じます」/一瞬、緊張のざわめきが起った。陸海軍首脳には不意打ちであった。/首相に乞われて、天皇は身体を前に乗りだすような格好で、静かに語りだした。/「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である」/一瞬、死のような沈黙がきた。天皇は腹の底からしぼり出すような声でつづけた。/「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先からうけついだ日本という国を子孫につたえることである。いまとなっては、ひとりでも多くの国民に生き残っていてもらって、その人たちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はない。/もちろん、忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」/降伏は決定された。八月十日午前二時三十分をすぎていた。〉
終戦を決めた外務省の意訳
この瞬間から終戦処理は軍から外務省の手に移った。〈八月十日午前七時、国民がようやく寝床をはなれはじめるころ、一条件ともいえる「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は、これを包含しおらざる了解のもとに」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が、中立国のスイスとスウェーデンの日本公使に送られていった。〉のである。この日本側の照会に対し、バーンズ米国務長官が回答したが、その訳文作成で外務官僚が智恵を絞り出した。
〈八月十二日は日曜日であった。その午前零時半すぎ、迫水(さこみず)書記官長は同盟通信外信部長から、サンフランシスコ放送が回答を流しはじめたことを知らされた。/(中略)外務省幹部は連合国の回答は不満足ながら、国体は護持されるとし、受諾する方針をきめた。全文を読むと天皇制に対する確たる保証はない。しかし「最終的の日本国の政府の形態は……日本国国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす……」というのであるから半ば保証されたも同様だと判断したのである。/行動を起したのは大本営の方が早かった。午前八時すぎには早くも梅津参謀総長と豊田軍令部総長とが参内、軍は回答文に絶対に反対である旨を奏上した。回答文中にあるsubject toを軍はずばり「隷属する」と訳した。こう訳せば「天皇および日本国政府の国家統治の権限は……連合軍最高司令官に隷属するものとす」となるのである。これを受諾するということは、/「国体の根基たる天皇の尊厳を冒涜しあるは明らかでありまして、わが国体の破滅、皇国の滅亡を招来するものです」/と両総長は力をこめて説くのである。/外務省幹部は、このsubject toを「どうせ軍人は訳文だけをみて判断するだろうから」ときめてかかり、傑出した名訳を案出していた。「制限の下におかる」である。陸軍はこんどは乗せられなかった。かれらの訳出した「隷属する」でいかにして国体を護持できようかと硬化したのである。(中略)/外相が鈴木首相に会い、首相の意見も受諾案であることを確認し、参内したのは午前十時半をやや回っている。軍に遅れること2時間である。しかし、天皇の意志はもう一つに固まっていた。/「議論するとなれば際限はない。それが気に入らないからとて戦争を継続することはもうできないではないか。自分はこれで満足であるから、すぐ所要の外交手続きをとるがよい。なお、鈴木総理にも自分の意志をよく伝えてくれ」/午後三時から宮中では皇族会議が、首相官邸では閣議が、それぞれひらかれた。〉
“subject to”を常識的に日本語に翻訳すれば「隷属する」になる。「制限の下に置かれる」は誤訳とは言えないまでもかなりの意訳だ。それであっても「英語については外務省の方が陸軍省よりも達者である」という了解があるので、外務省の意訳作戦が成功したのだ。外務官僚が英文翻訳という技能を最大限に活用し、終戦の流れを固めたのである。
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source : 文藝春秋 2017年09月号