東京裁判と私

日本再生 第69回

立花 隆 ジャーナリスト
ライフ 社会 テレビ・ラジオ

 NHKで十二月十二日から十五日まで、四日間にわたって放送された「ドラマ 東京裁判」は従来の東京裁判ものとは全くちがう視点から裁判を描いている。相当に面白かったが、かなり不満も残した。見てない人に多少の説明を付け加えれば、これはあくまでドラマでありドキュメンタリーではない。

 裁判の進行過程など、実写フィルムがインサートされるが、それはあくまで時代背景の説明資料。ドラマの骨格部分は、すべてプロの役者によって、演じられている。ドラマの中心は、東京の法廷にいた十一カ国の十一人の判事たち。内部の意見の対立が相当激烈だった。副題に「人は戦争を裁けるか」とある。それでわかるように、東京裁判の、あるいはニュールンベルク裁判を含めて戦争裁判の本質にかかわる、「人はそもそも戦争を裁けるのか」という根源的な問いかけが中心にある。

 事実問題としては、ナチスドイツと日本を被告として、ニュールンベルク裁判と東京裁判という二つの戦争犯罪を裁く巨大裁判の法廷が開かれた。それぞれ二十四人と二十八人という大量の戦争時代の国家指導者たちが裁かれ、それぞれ十二人と七人の被告たちが有罪判決を受けて、死罪に処せられた。つまり、戦争犯罪は、今さら「裁けるのか?」という問いを発する段階ではない。すでに裁きが終った問題となっている。

 とはいうものの、その妥当性は今でも問題になっている。一つは事後法の問題だ。事後法とは、被告人を訴追するにあたって、被告人が法を犯したとされる時点では、そもそもその行為を違法行為として裁くような、しかるべき法がなかったにもかかわらず、事後的に法を作って、その行為を罪としてしまうことをいう。これは世界のどこの国でもしてはならないこととされてきた。事後法が許されるなら、どんな人間のどんな行為でも事後にもっともらしい法律を作って裁くことが可能になる。実は最初の戦争裁判であるニュールンベルク裁判において、基本的な戦争犯罪とされた、「平和に対する罪」(A級)も「人道に対する罪」(C級)も二つながらに新しく作られた罪概念だった。これでは事後法裁判そのものである。

 同じことが、東京裁判の法廷でも問題になった。そして、「ドラマ 東京裁判」においても、ここがドラマの主要な論争点になっている。この問題は、いまも論争点の一つとして残っており、論争の決着はついてない。この問題の描き方描かれ方のわかりにくさが、私がこのドラマに不満を持つポイントの一つだ。だが、このような論争点も、これまでのNHKでは「さわらぬ神にたたりなし」と、そもそも取りあげないようにしてきた。今回はそれを正面から取りあげたことそれ自体は評価すべきだ。

 東京裁判は近年これまで発表されなかった資料のたぐいが完全公開されるようになり、特に若い人の間で、自由な討論がなされるようになってきた。もう少しすると、高校の日本史の授業で、裁判の主要な論争点が公然と議論されるようになるだろう。そこまでいかないと、本当の日本の戦後はやってこない。

 最後に簡単に述べておきたいことは、あの裁判の主役の一人、キーナン検事のことだ。実は私、個人史において、キーナン検事とタイムスリップ的に思いがけない接近遭遇をしている。

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source : 文藝春秋 2017年02月号

genre : ライフ 社会 テレビ・ラジオ