十九年ぶりの日本出身横綱誕生に日本中が沸いた。一月二十二日の千秋楽の大一番で、大関稀勢の里が、土俵際で横綱白鵬を一瞬のすくい投げで倒した瞬間、両国国技館は動物の咆哮のような大歓声に包まれた。それを聞きながら私は、これはアメリカにトランプ大統領が登場して以来、日本を目の敵にしたような訳のわからない文句の付け通しでいることへの反動のようなものではないかと思った。貿易不均衡も日本のせいなら防衛努力も足りない、アメリカに守ってほしいならもっと金を出せといわんばかりの注文の連続で、日本人みんながうんざりしていた、その欲求不満が一挙に爆発したみたいだと思った。
この話題は後にまわして、まずは相撲の話をもうちょっと書いておく。私は熱狂的な大相撲ファンではないが、稀勢の里には妙な縁があって、個人的なつながりすら感じている。私のファミリーは茨城県の出だから、稀勢の里は故郷の力士だ。私の母親は龍子(たつこ)という必ずしも女性的ではない名前を持っていたが、それは彼女が龍ケ崎で生まれたからだ。龍ケ崎は、茨城県南部の町で、全国的な知名度を持つ町ではない。今回稀勢の里が子供時代(幼稚園から中学まで)育った町として一挙に全国に知られるようになった。私の母親の父は戦前の警察官僚で、龍ケ崎の警察署長をしていたときに生まれた娘なので、龍子と名付けたという。母親の名前ということで、私は小学生時代からこの妙に小難しい字に慣れ親しんできた。稀勢の里を相撲の道に引きこんだのは、鳴戸親方(元横綱隆の里)だが、私はこの人とは名前の隆の字つながりで、昔から親近感を抱いていた。
隆の里は、相撲取りとしてはいまひとつのまま終ったが(横綱にはなったが、大横綱だったとはいえない)、今回稀勢の里が横綱になってから次々に明るみに出てきたエピソードでわかったことは、この人は相撲取りの能力より相撲取りのトレーナーとしてはるかに優れた資質を持っていたということだ。それが最大限に発揮されたのが、稀勢の里という力士を育てたことだろう。稀勢の里は、持って生まれた運動能力は非常に高いものがあったのに、あまりにもプレッシャーに弱いという精神的弱点を同時にかかえていた。何度も何度も綱取り寸前のところまでいったのに、そのたびにプレッシャーに負けて、ギリギリのところでポカを打ち、それまでの努力を無駄にしてしまうということの繰り返しだった。今回も、綱取りがかかった千秋楽の大一番で、白鵬のガブリ寄りに押されてズルズルさがり土俵の徳俵に片足がかかったところで、多くのファンが、ああまた今度もダメだったかと、思った(私も、その一人)。
だが相撲が終ってみると最後の腕の一振りで、大一番に勝ったのは、稀勢の里だった。それを見て稀勢の里は大化けしたなと思った。真の横綱相撲を取れる力士になっていたのだと思った。この先まだまだ両者の面白い対戦があるのだろうが、年齢からいって、そう遠くない将来に白鵬に引退を迫ることになるのは、稀勢の里だろうと私は思っている。
それより今回私が強く感じたのは、実は、日本の相撲よりもっと大きな大一番。アメリカの大統領選という大一番にさらなる番狂わせがあるのではないかということだ。
確かにトランプ対クリントンという大一番にトランプが勝利をおさめ、トランプが現に第四十五代のアメリカ大統領の座についたということは誰でも知っている。しかし大統領になって以後のトランプのやることなすこと、驚くほど異常である。大統領候補時代には必ずしも見えなかった欠点が今モロに見えている。トランプの欠点は格下相手との勝負にムキになるあまり横綱相撲が取れないことにある。メキシコとの国境の壁をめぐる論争など腕力まかせ財力まかせのいじめとしか思えない。いずれこの人は政治家として大破綻をきたして、ニクソン風の弾劾を受けるか、国内反対派の大反発を受けて政治危機を招くか、友好国の組織的離反を招くか、あるいは経済的大失政をとげるようなことが起こらないとも限らないと思っている。いずれにしろ、アメリカ大統領選は、日本の横綱昇進劇のように完全に終ったわけではなく、まだ途中経過ぐらいに考えたほうがいいのではないかということだ。政治の世界は何だってあるのだ。
トランプはこれまでのところ、大統領令という大統領にのみ与えられた強力な行政命令を次から次に発することで、ほとんど独裁政治さながらの強権者となり、選挙運動期間中に発していたアメリカを偉大な国として再生させる予告的プラン(メキシコとの国境沿いの壁。TPP脱退。NAFTA再交渉。オバマケアの廃止。パイプライン網の建設等々)を次々と現実化することに成功している。
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source : 文藝春秋 2017年03月号