ことし1月、長年の畏友である白井俊夫が、泉下の人となった。享年85。その名前を知る者は、相当なファッション通であろう。
彼はまだ高校生だった1955年に、横浜・馬車道の洋品店「信濃屋」でアルバイトをはじめて以来、定年後も同店の顧問として勤め、実に60年以上にわたり現役を貫いた男。慶応2年に創業し、数多の文化人を顧客にもつ名門洋品店の番頭だった彼は、紳士服業界ではつとに知られていたし、あれほど洋服に対する深い愛情と造詣をもつ人間を私は見たことがなかった。
私が初めて白井に出会ったのは、彼がまだアルバイトの身だった1960年のことだ。横浜に住む友人の案内で、元町にあった頃の同店を訪ねたところ、接客してくれたのが彼だった。そのときの彼の装いは、今でも忘れられない。真っ白のボタンダウンシャツに、同じ色のチノパンツ、そして茶色の濃淡のサドルシューズ。もちろんその頃、ボタンダウンシャツやチノパンなんて呼び名はほぼ知られていなかったが、そんな白井のバタ臭い着こなしに好感を持ち、すぐに友人になった。
実はその前年、私はイラストレーターの穂積和夫氏らと結成した遊びの会「アイビーリーガース」の面々と雑誌『MEN'S CLUB』に登場しており、彼はすでに私のことを知っていたようだ。そういえば当時の『MEN'S CLUB』には、まだ『男の服飾』という日本語のタイトルもついていた。ずいぶん昔の話である。以来、私は横浜に寄るたびに3歳年下の彼と会い、洋服の話をするようになった。
私たちの共通の話題といえば、なんといっても進駐軍の将校たちのファッションだった。1934年に生まれ、学校では鬼畜米英と叩き込まれた私だが、終戦後ジープを駆る米兵の姿を見た瞬間、そのピカピカに磨き込まれたブーツや、ビシッと折り目の入ったパンツの格好よさに、節操なくひと目で寝返ってしまった。あの頃は代々木のワシントンハイツをはじめ、東京の各所に米軍の宿舎があり、そこに干されている子供の洗濯物ですら格別に美しく、私には憧れの対象だった。
横浜・本牧で生まれ育った白井は、そんな光景を私よりもっと間近で見ていたはずだ。当時占領軍のナンバー2だったロバート・アイケルバーガー陸軍中将の車に乗せてもらったこともあるというから、さぞかし痺れたことだろう。終戦後は上野のアメ横に代表される、米軍の払い下げ品を扱うマーケットが存在したが、彼は横浜という土地の利を活かして、そういった貴重な品をうまく手に入れていたようだ。まだアメリカ製品の情報など存在せず、リーバイスは「レビス」、ヘインズは「ハンス」と呼ばれながらも、1960年頃の横浜は東京よりずっとバタ臭く、お洒落な街だった。
白井と会う時はいつも時間を忘れて、布ひときれ、糸一本に至るまで、誰にも理解できないような洋服の細かい話をし続けた。まわりからはさぞ奇妙なコンビに思われただろう。そして最近になり、その話をふたりだけで独占するのをもったいなく感じるようになった。我々が出会った60年代のことは、その日の靴の色まで思い出せるのに、昨日のことは思い出せない。
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source : 文藝春秋 2023年4月号