もともと文学畑の出身で、その視座から哲学や思想にアプローチしてきた私が、人類学者エマニュエル・トッドの仕事に関心を抱いたのは、1990年代にフランスの論壇における彼の特異なポジションに注目してからであり、彼と親しく話をするようになったのは、イラク戦争後の2005年〜10年頃である。
その直前の時期に、来日したトッドを囲む少人数の討論セミナーが東京の某所で開かれたことがあり、私はそこに参加し、一読者として初めてトッド本人に会い、多少言葉を交わしていた。翌々年の9月、当時勤務していた大学の任務でフランスへ出張した私は、空き時間のできたパリ滞在最終日の朝、意を決し、トッドに電話をかけてみた。勿論、再会してみたかったからである。
すると、トッド本人が電話に出てきて、「『堀さん』と聞いても誰なのか特定できないが、もしかしてあなたは、日本人に珍しいほど髪がカールして盛り上がっている人か?」と訊ねる。「ああ、ウイ、その通りです!」と答えると——現在の私は禿げ頭だが、当時は頭髪がそんなふうだったのだ——、トッドは途端に胸襟を開く態度を取ってくれ、その日すぐに自宅に招待してくれた。
かくして私は、彼個人の仕事場を見学する幸運に恵まれた。床いっぱいに敷かれた世界地図にさまざまな分布を示すカラーの紙片が貼り付けてあった。その後、2人して界隈の露天市場へ繰り出して昼食を摂り、爽やかな夕暮れに包まれながら、カフェのテーブルで意見交換の会話を弾ませた。
年齢が近いとはいえ、あの膨大な知見の持ち主を相手にいったい自分が何を語り得たのかと訝しいが、今では話の内容をほとんど憶えていない。気質の面で意気投合したことだけは確かだった。トッドが私にしばしば言うのは、実はけっして芳しくない意味合いでなのだが、「おまえはフランス人過ぎる」という台詞である。これは、私としても、腑に落ちる点がないわけではない……。
以来、彼のたびたびの来日時には、東京・神楽坂のビストロで政治関連の議論やプライベートな打ち明け話に4、5時間も興じたり、トッドが全幅の信頼を置く文藝春秋社の編集者N氏に連れられて、伊豆半島や水戸への小旅行を共にしたりしてきた。また、東京・恵比寿の日仏会館で中野剛志氏と彼の公開討議を司会したこともあれば、本誌が企画する日本の識者らとトッドの座談会の通訳を務めたこともある。
私にとって、エマニュエル・トッドとのこのような交流の集大成は、トッド自身が研究の集大成的著作だと述べる『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(全2巻、文藝春秋、2022年)の邦語訳にほかならない。ただ、この訳書には、一身上の都合で当初の予定を大幅に超える年月を費やし、関係各位にたいへんご迷惑をおかけした。21年の秋に一旦は完訳していたのだが、22年の夏にゲラ校正でふたたび多くの日数を割く必要に迫られた。それでも結果としては、学術的内容を主とするトッドの本の翻訳として、精読に値する出来映えの訳文を提示できたと自負している。
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source : 文藝春秋 2023年4月号