数々のベストセラーを生み出した小説家の山崎豊子氏が、9月29日に88歳で逝去された。心から御冥福をお祈り申し上げる。今年8月から『週刊新潮』に「約束の海」の連載を始め、文字通り生涯現役を貫いた。山崎氏の作風は、ロシア文学と比較すると人間の心理と思想に深く斬り込んだドストエフスキーよりも、歴史の中で人間がどのように翻弄されていくかを描いたトルストイやパステルナークに近い。
山崎作品の中で最も感銘を受けたのが『不毛地帯』だ。シベリアの白い不毛地帯から始まり中東の沙漠の赤い不毛地帯で終わるこの作品に、戦後の昭和史が圧縮されている。元大本営作戦参謀で、11年のシベリア抑留を経た後、近畿商事に入社し、FX(航空自衛隊の次期主力戦闘機)商戦、日米自動車会社の提携、イランの石油開発で活躍する主人公の壹岐正を「昭和の参謀」と呼ばれた実在の人物と重ね合わせると、この作品の面白さが半減する。テキストだけを虚心坦懐に味わうことが重要だ。
この物語全体を通じて、壹岐の行動を規定するのはシベリアでの体験だ。特にハバロフスクの内務省(当時は秘密警察も内務省に所属していた)での予審判事シャーノフと壹岐のやりとりが迫力がある。
〈シャーノフは細い眼を光らせながら、詳細に聞き糺(ただ)したあげく、壹岐を暫(しばら)く休憩させ、頻(しき)りにペンを動かしていたが、やおら、顔を上げると、
「大本営で作戦計画に関与したお前の罪は、ソ同盟刑法第五十八条四項の資本主義幇助罪に相当する、今日の訊問はこれまでにするから、署名しろ」
と調書を突き出した。
「それは納得できない、日本人である私が、資本主義国家である日本の国防のために遂行した行為に対して、ソ連の国内法を適用するなど荒唐無稽であり、国際法に違反する」
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source : 文藝春秋 2013年12月号