わずか二十八年の短い生涯を描くのに、まさか原稿用紙千枚以上が必要になろうとは思いもしなかった。拙著『風よ あらしよ』――装幀の色合いとその分厚さから「赤い鈍器」とも呼ばれたこの評伝小説のタイトルは、伊藤野枝自身が遺した色紙の言葉「吹けよ あれよ 風よ あらしよ」からとったものだ。
あらしのような一生、否、あらしのような女、と呼んだほうがふさわしいだろう。のちに平塚らいてうから雑誌『青鞜』を引き継ぎ、婦人解放運動家にして無政府主義者となってゆく野枝は、一八九五年(明治二十八年)福岡県糸島郡に生まれた。貧しかったので口減らしのため何度も里子に出されたが、向学心と負けん気は衰えることなく、東京在住の叔父宛てに三日にあげず長い手紙を書き送って、ついに上野高等女学校に通わせてもらえることになる。
無理矢理挙げさせられた仮祝言の相手に続いて二人目の〈夫〉となるダダイスト・辻潤は当時、この上野高女の教師だった。田舎出で身なりに構わない野枝のことを内心「衿垢娘」と呼びながらも、辻はその才能と野育ちのまなざしに惹かれてゆく。野枝にとっても辻は初めて恋をして結ばれた相手であり、またとない導き手でもあった。
「お前には書く才能があるんだ。俺の背中を踏み台にして伸びてゆけ」
腕の中の教え子に向かって自らに酔うようにそう宣った時、辻ははたしてどれほど将来を見越していただろうか。彼との間に二人の息子をもうけた野枝は、やがてほんとうに彼を踏み越えて成長し、あの大杉栄と出会って恋に落ちるのだ。
世の中がいわゆる〈不倫の恋〉に厳しいのは昔も今も変わらない。それが子を持つ母親であれば尚更だ。
辻との間の子を置いて家を出た野枝に対してもそうだった。おまけに相手の大杉は、堀保子という糟糠の妻がありながら神近市子とも関係し、「フリー・ラヴの実験」なる名目のもとに多重恋愛を標榜していたものだからなおいけない。二人の恋は世間の総スカンを食らい、だからこそ、天を灼くほどにまで燃えあがった。
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source : 文藝春秋 2023年7月号