千葉の稲毛海岸に「千葉市ゆかりの家・いなげ」がございます。今は有形文化財に指定される日本家屋に私の父・愛新覚羅溥傑と母の嵯峨浩が結婚してすぐに住んでおりました。1937年のことでございます。
父は満州国から日本に留学し、その家から陸軍歩兵学校へ馬で通っておりました。それを毎朝、母が笑顔で見送っていたとか。ご近所でも評判になるほど仲がよろしかったそうです。晩年、父は「あの頃が一番楽しかった」と申しておりました。
お二人の結婚は、父の実兄の溥儀さまが皇帝でいらした満州国と日本の「日満一体」のためのものでした。関東軍が一方的に決めたのですが、父は母の写真を見てひと目惚れしたみたい。母もどうやら同じだったようです。結婚後、半年ほどで父が学校を卒業し、満州国へ移りました。そこで姉の慧生と私が生まれ、4人でつましく暮らしておりました。
しかし終戦を迎え、満州国が崩壊したとき、父は突然ソ連の収容所に抑留されました。母は私を連れて、当時姉がいた東京へ命からがら戻ったのでございます。この家族離ればなれが16年間も続きました。
1961年に中国の広州で再会したときは父も母も嬉しかったことでしょう。腕を組んで駅のプラットフォームを歩くお二人は分け入る隙もないほどお話に夢中で、私はその後ろを歩くばかりでございました。
父と離れて暮らす間、母は辛そうなところをおくびにも出しませんでしたが、1953年に突然父から手紙が届いたときは、嬉しさとともに大層驚いておりました。母の知らない間に、姉が手紙で周恩来総理に父との交流を願い出ていたのです。
周総理と申しますと、日本酒をご手配くださったのを覚えております。父と母は日本酒が大好き。再会したお二人が北京で暮らすと、手に入りにくい日本酒を融通してくれる酒屋さんをご紹介くださいました。ほかにもお給金やお手伝いさんなど細かにご配慮くださったのです。
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source : 文藝春秋 2023年7月号