ケンカばかりしていた2人は深い愛情で結ばれていた
昨年11月15日、母、藤原ていが亡くなりました。大正7年生まれで、9日前に98歳の誕生日を迎えたところでした。夫の新田次郎が1980年に亡くなってからは兄や私たち家族の隣にひとりで暮らしていたものの、80歳を過ぎたころから認知症を患い、最後は兄、私、妹と3人の子どもに見守られながら、都内の病院で穏やかに眠るように息を引き取りました。
37年前に父が心筋梗塞で急死したとき、私は、父の命を奪った「天」とか「自然の摂理」への怒りが渦巻いて仕方ありませんでした。と同時に、母を亡くしたらこれ以上のショックを受けるのかと、いつか訪れる“その日”を想像し怖くもなりました。あまりの寂しさにこの世を生き抜くことなどできないとすら思ったのですが、実際にはそうではなかった。母は長い時間をかけて徐々に体力や気力を失い、私の顔もわからなくなっていき、死の予告にも似たその時間のおかげで、私にも少しずつ母を喪う覚悟ができていたのです。
1943年に満州で生まれた私は、終戦の混乱のなかを母に手を引かれて命からがら日本へと引き揚げました。その壮絶な日々は母が書いた『流れる星は生きている』(中公文庫)に詳しいのですが、私は恐ろしくて中学生になるまで手に取ることができませんでした。いざ読んでみると、1年2カ月に及ぶ過酷な生活に耐え、ときには乞食のようなことまでして日本に連れ帰ってくれた母に私は一生頭が上がらないと、涙がぼろぼろこぼれてきた。もし母が倒れていたら、当時満2歳になったばかりの私は、3歳上の兄・正広、生後1カ月の妹・咲子とともに中国の荒野で野垂れ死んでいたことでしょう。
一度は死んだも同然の人生。日本中の人、世界中の人にどれだけ非難されようと怖くありません。民主主義、自由、平等よりも武士道精神、とりわけ卑怯を憎む心や惻隠が大切だと『国家の品格』(新潮新書)で書いたときは、この本によって筆を断たなければならなくなっても構わないと覚悟を決めることができました。これは、母が教えてくれた強さです。
一方、諏訪高島藩の武士、と言っても足軽、の血を引く父は、幼かった私に「お前は武士の子なのだ」と武士道精神を説いて聞かせていました。「武士たるもの、弱い者を救え。そのためなら少々の力ずくもしかたない」と言われていた私は、弱い者や貧しい者をいじめるやつがいれば直ちにすっ飛んで行って殴りとばし、蹴散らしていたものです。そのたびに父は目を細めて褒めてくれました。とはいえ、横では母が「なに親子で調子に乗ってるの、バカ」と呆れていましたが(笑)。
ここ十数年、富む一方の勝者、追いやられる弱者、を生み出すばかりの新自由主義やグローバリズムと私が徹底的に戦っているのは、父が教えてくれた武士道精神の影響でしょう。作家であった父と母、このふたりに育んでもらった強さと矜持は、私のなかにしっかりと根づいています。
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source : 文藝春秋 2017年02月号