去年、『あの胸が岬のように遠かった――河野裕子との青春』(新潮社)という一冊を出し、思いがけず、NHKでドラマ化もされた。
河野裕子は、与謝野晶子以来と言われることもある歌人であったが、乳がんのため2010年、64歳で亡くなった。10年に及ぶ闘病の記録は、前著『歌に私は泣くだらう』(新潮文庫)として既に出版していた。
彼女の死後、実家の整理に行ったのだったが、押し入れの奥に、彼女と私とのあいだに交された300通はあろうかという手紙の束を見つけて驚いた。それよりももっと驚いたのが、私と出会い、結婚するまでの彼女の日記が10冊ほど残されているのを見つけたことであった。
長く読むのをためらっていたが、ついに意を決してそれを読んだときの体験は圧倒的だった。ほとんど感動的であったとさえ言ってもいいかもしれない。『あの胸が岬のように遠かった』の「はじめに」に私は次のように記している。
「日記には、私と出会う以前に作品を通してその存在を知り、たった一度の出会いによって、運命のように思いを寄せることになった一人の青年への思い、それが綿々と綴られていた。やがて、その青年への思慕の真っただ中で出会うことになってしまった私への思い、自らの意志から引きはがされるような私への傾斜、その葛藤と懊悩、それらが繰り返し、リアルに綴られていた。(中略)当事者のひとりが自分であることを忘れて、まるで小説かドラマのように引き込まれてしまったものだ」
まことに激しい恋であったと思う。もちろんリアルタイムに私が経験し、記憶していることが多いのだが、人を愛するということに、これほどまでに一途になれる人がいること、それが他の誰でもなく、私が生涯の伴侶として40年をともにしてきた人であったことに、遅まきながら感動したのである。その一途さだけは書き残しておきたいと思った。
その青年への思いが断ち切れず、私の前で意識を失うほどに苦悶していた彼女であったが、とうとうある夜、発作のように地面に倒れ伏し、自分を制御できなくなったことがあった。あなたの前に愛してしまった人がどうしても忘れてしまえない、「どうすればいいの」と泣きながら、いつまでも私の胸を叩き続けたのだった。
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