僕は昭和40年生まれ。祖父次郎63歳、祖母正子55歳の初孫なので、所謂祖父母晩年の記憶しかなく、本企画「100年の恋の物語」に相応しいドラマや映画にもなったロマンチックな事柄は知り得ない。悪しからず。さて、物心ついた頃僕ら家族は青山の賃貸マンションから、祖父が新築した赤坂台町の小さなビルに同居するようになる。祖父66歳、初めて東京に建てた住まいは、1階が駐車場、2階が祖父の部屋で3、4階が僕ら家族、その上階が伯父一家という割り振りだった。僕は小学校2年生までそこで暮らした。祖父は夫婦円満の秘訣を尋ねられ、「一緒にいないことだ」と煙に巻いていたが、僕にとって現在記念館になっている「武相荘(ぶあいそう)」は祖母の住まいで、祖父は赤坂と夏の軽井沢を行き来する、つまりちっとも冗談でなく、一緒にいなかった。今風に言えば熟年別居と言ったところか。子どもへの接し方も対照的、祖父は孫たちに「ほっぺにプーして」と西洋風の挨拶を強要、会えば必ず小遣いとそれなりだったが、祖母は挨拶もそこそこに書斎に籠る時間が長く、いわんやお年玉などの記憶もない。
やがて、僕は大学に入り武相荘に居候。時折祖父が戻っても、朝早い夫はコーヒーを自ら沸かし朝食を済ませ、大工仕事等に精を出す。対照的に妻の朝は遅く、朝食も通いのお手伝いさんがという具合。すれ違いは人付き合いにも及び、祖母が友人と晩酌していても、祖父は「ではお先に」と早々に退散し混ざることはなかった。ある時手先の器用な祖父が好物の栗を素早く剥き食していると、傍にいた負けず嫌いの祖母が、「信哉りんご食べる?」と真剣に剥いてくれたそれは皮の方が厚かった。まるで正反対の夫婦の会話も、「あの経費はお前の仕事だろう」と次郎の言に、誰の目にも屁理屈な祖母の言い訳が決まって通り、祖父はこちらを見て「まただ」と仕方なさそうに困った顔をするのである。
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source : 文藝春秋 2023年7月号