大きな物語という“諸刃”
2015年10月、パレスチナ自治区に住む大学生ムハンナド・ハラビが、ユダヤ教指導者の家族らを刃物で襲い、2人を殺害、2人に重軽傷を負わせた。
駆けつけたイスラエルの警官にその場で射殺されたハラビ容疑者は、事件前夜、フェイスブックに自作の詩を書き込んでいた。パレスチナの旗を美しい少女に見立てたこの詩はネット上で拡散され、彼を模倣する攻撃が続発する。「ローンウルフ(一匹オオカミ)・インティファーダ」とも呼ばれ、イスラエル全土に波及した、パレスチナの若者によるユダヤ人への波状攻撃の始まりである。
当時、新聞社のエルサレム特派員だった本書の著者は、ハラビ容疑者の母親に話を聞きに行く。母親は、息子が命と引き換えに行ったことを神にも誇れる行為だと言い切った。
〈それはパレスチナ社会の隅々にまで行き渡る殉教者ナラティブだった〉――ナラティブがもたらす力について深く考えさせられるきっかけとなった出来事として、著者はこのエピソードを挙げている。
「語り」「物語」「ストーリー」などと訳されるナラティブは、幅広く物語性を示す単語である。人は、ばらばらに起きる事象を理解し、記憶し、意味づけるために、それらを結びつけて物語を作る。著者の言葉を借りれば〈人間はナラティブという形式で世界を、そして自分や他者、世界を定義して生きている〉のだ。
個人の人生に意味と価値を与えてくれるナラティブは強力な行動原理となり、人はときに、そのために命さえ投げ打つ。
10代の少年や少女が小さなナイフを手に重装備のユダヤ人治安当局者らを襲う現象を重く見たイスラエル政府は、首相直轄機関のモサドに調査を命じる。その担当者に詳細な取材をした著者は、伝染性をもって他者を巻き込んでいくナラティブの力を目の当たりにするのだ。
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source : 文藝春秋 2023年10月号