人間の心に寄り添った名医の姿
2022年に亡くなった中井久夫は、すぐれた精神科医で、後進に大きな影響を与えた。1995年の阪神・淡路大震災が起きた際には被災者の「心のケア」にあたる医師や臨床心理士たちを率い、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の概念が日本でも浸透するきっかけをつくった。
中井はまたすぐれた文筆家でもあり、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、ドイツ語に通じたマルチリンガルで、ギリシャの現代詩人を紹介した『カヴァフィス全詩集』の翻訳で読売文学賞を受けている。
なぜそのような「二足のわらじ」を履くことが可能だったのか、中井の秘密を知りたい気持ちで本書を手に取ったことをここに告白しておく。
精神医学と詩文の翻訳が、中井にとって「二足のわらじ」というようなものでは決してない、ということが本書を読んでわかった。精神医学とたぐいまれなる彼の言語感覚は1人の人間の中で分かちがたく結びつき、その2つが地中で複雑に絡みあった上にすっくと立っていたのが、中井久夫という1本の木だったと言えるのかもしれない。
中井は初めから精神医学を志したわけではない。ウイルス学の研究者だったが、医局制度を批判した本を筆名で出していたことがバレて上司に自己批判を迫られ、拒否して破門される。眼科のアルバイトなどをへてたどりついたのが精神医学で、患者が回復して退院していく姿にひきつけられたという。
「誰でも病になり得るのであって、たまたまなんらかの幸運によって免れているだけだ」というのが中井の疾病観だと著者はしるす。たとえば統合失調症の患者について、かつての生活で必要だった兆候を読む能力を持った人たちを、近代化していった社会が異常としてはじき出していった、という文明史的な視点にハッとさせられる。
「精神科医としての神谷美恵子さんについて」という短い文章の中で、中井は「一般に医者の中には病いへの偏愛と畏怖とが潜んでいる」と書いた。中井の中にも、と受け取っても間違いではないだろう。
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source : 文藝春秋 2023年10月号