“母親”に正解はない
すぐれたノンフィクションは、その根底に著者自身の「問い」がある。これを考え抜かないと一歩も前に進めない、自分の人生を生きられないという思いがなければ、どんな文章を書いても読み手に届かない。
〈私は感染症で生死の境を彷徨ったことがある。/それはわが子を生んで九日目のことだった。〉
本書はこう書き出される。
著者は初めての出産を終えて退院し、赤ん坊とともに自宅に帰った翌日、突然倒れて救急搬送された。院内感染による敗血症性ショックとDIC(播種性血管内凝固症候群)と診断され、瀕死の数日間を過ごす。
そうした状況でも、助産師が頻繁に病室を訪れ、母乳を搾っていく。その乳はすべて捨てられるが、搾らなければもう出なくなるという。
いつかわが子に母乳を与える日のために、生死の境にあって、捨てるための乳を搾る。そんな中、著者はかつて会った女性が言った「母は死ねない」という言葉を思い起こす。
その女性は、息子を殺されていた。殺したのは同棲相手で、場所は団地の一室である。女性が現場に行くと、床には黒い血だまりがあった。そこを雑巾で拭くと、中から赤い血が出てきたという。
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source : 文藝春秋 2023年7月号