現下日本の抱える問題が詰め込まれている『52ヘルツのクジラたち』町田そのこ

ベストセラーで読む日本の近現代史 第121回

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
エンタメ 読書

 児童虐待、介護、友情、不倫、離婚、東京と地方の差異など現下日本の抱える問題がたくさん詰め込まれている小説だ。しかもそれぞれの問題が小説の内部で解決されているとはいえない。むしろ人生の難問をあえて解決せずに開かれたままにしているところにこの小説の魅力がある。

 26歳の三島貴瑚(きこ)は、東京から大分の海辺の街に越してきた。芸者を引退した後、祖母が1人で住んでいた家で貴瑚は新たな生活を始め、家の内装工事を頼んだ村中眞帆(まほろ)に風俗嬢だったのかと尋ねられる。

〈辛抱強く村中の話を聞くと、どうやらわたしはこの周辺の住人の間で、東京から逃げてきた風俗嬢という話になっているのだという。縁もゆかりもない大分県の小さな海辺の町にひとりで越してきたのはヤクザに追われているからで、そのうえ体のどこかにヤクザに切りつけられた傷を抱えている、らしい〉

 確かに貴瑚の腹部には包丁が刺さった痕がある。

〈ああ、もう。引っ越してくる土地を間違えたのかな。他人と関わり合いたくなくてここまで来たのに、結局同じじゃないか。おへその少し上の辺りがぎゅっと疼き、思わず手をあてて気付く。/「ねえ、どうしてヤクザに切りつけられたなんて……」/問おうとして、しかしすぐに思い至る。あの個人病院だ。傷口が痛くて堪らなかったから、痛み止めと抗生剤を貰いに行った。/「信じらんない。個人情報ダダ洩れかよ」/思わず脱力して、座り込んだ。これって訴えられるんじゃないの〉

虐待、介護、自殺願望

 都心郊外で貴瑚は母親と義父から虐待され育った。21歳からは進行性の難病に罹った義父の介護を貴瑚1人に押し付けられた。ある日、死を決意して街をさすらっていると牧岡美晴と岡田安吾(アンさん)に声をかけられる。貴瑚と美晴は高校で同級生だった。美晴とアンさんは学習塾の同僚で美晴は経理担当、アンさんは講師だ。アンさんは、貴瑚の家族に入所できそうな介護施設の資料を渡す。そして家族を強引に説得し、貴瑚を介護地獄から解放する。

 貴瑚は従業員が200人強のファミリー企業の工場で働くことになり、貴瑚と美晴とアンさんは親しく交遊するようになる。アンさんは貴瑚のメンターのような存在だ。貴瑚は、会社の専務で社長の息子である新名主税(ちから)と付き合うようになる。主税は貴瑚を愛していると言う。貴瑚は結婚する気になったが、主税は別の女性と婚約しており、貴瑚を愛人として囲うつもりのようだ。貴瑚は抵抗感を覚えたが、主税のペースに巻き込まれ、抜け出せない。会社も辞め、主税が借りたマンションで暮らすようになる。あるとき主税の要望に応えて、貴瑚は美晴とアンさんと食事をする機会を設けた。アンさんと主税の関係は極めて険悪だった。

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source : 文藝春秋 2023年10月号

genre : エンタメ 読書