評伝作家として世界的に著名なウォルター・アイザックソン氏による作品だ。確かに著者は丹念な取材をし、イーロン・マスク氏の主張と対立する見解も紹介している。しかし、大きく見解が対立する事柄についてはマスク氏の主張を採用している。批判的評伝ではなく、与党的評伝と位置付けるのが適切と思う。
支払いシステム「ペイパル」や電気自動車の「テスラ」、ロケットや人工衛星を開発する「スペースX」などの創業者兼出資者として著名なマスク氏をアイザックソン氏は、子ども時代、父親から精神的な虐待を受け、学校で酷いいじめに遭い、性格に歪みが生じているが、史上稀に見る天才として描いている。
〈生まれに育ち、さらには頭の配線具合から、冷淡になったり衝動的になったりすることもある。ふつうでは考えられないほどのリスクを平気で取ったりもする。ひたすら冷静に計算し、熱い情熱をもって突きすすむ。/「イーロンはリスクが欲しいからリスクを欲するんです」とペイパル創業期の同僚、ピーター・ティールは言う。「楽しんでいるのだと思いますよ。溺れてしまっているんじゃないかと思えるときもありますね」/米国の第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、次のように語ったことがある。/「私は嵐の男で、私の辞書に平穏という言葉はない」/嵐が近づくと生を実感するタイプなのだ。イーロン・マスクも同じだ。彼も、嵐と騒動に惹かれる。願い望むこともある。仕事においてもそうだし、うまくいかないことの多い恋愛においてもそうだ。仕事で危機や期限、シュラバなどに直面すると、とたんに奮い立つ。めんどうなことになると夜眠れなくなったり吐いてしまったりする。だが同時に元気にもなる。/「兄は波乱を呼ぶ男なんです」とキンバルも言う。「そういうタイプであり、それが人生のテーマなのでしょう」〉
しかし、ロシアでベレゾフスキー氏、グシンスキー氏、ホドルコフスキー氏、スモレンスキー氏などの寡占資本家(オリガルヒ)を間近で見てきた評者(特にスモレンスキー氏とは個人的に親しかった)としては、マスク氏もこれらの範疇に入る一人にすぎないように見える。ロシアの寡占資本家が政治に賭けたのに対し、マスク氏は技術に熱中した。当時のモスクワで政治よりもイノベーションの方が儲かる状況だったならば、マスク氏のようなロシア人寡占資本家が出てくる可能性は十分あったと思う。
『資本論』からみたマスク氏
マスク氏はマルクスが『資本論』で描いた資本の論理がそのまま受肉(人格化)した人物だ。
〈Zip2を立ち上げて4年弱の1999年1月、イーロンとキンバルはプルーディアンに呼ばれた。検索エンジンであるアルタビスタの機能を強化したいと考えるコンパック・コンピュータが現金3億700万ドルで買いたいと言ってきたのだ。ふたりは60:40で12%の株を持っていたので、27歳のイーロンが2200万ドル、キンバルが1500万ドルを受け取る計算になる。その小切手を受け取ったときは、本当に驚いたとイーロンは言う。/「銀行口座の残高が5000ドルから2200万5000ドルになったわけですよ」/ふたりはここから父親に30万ドル、母親に100万ドルを渡した。イーロンは、160平方メートルのコンドミニアムを買い、さらに、マクラーレンF1を買った。彼にとって最大の道楽である。世界最速の市販スポーツカーで、1台100万ドルもする。納車にはCNNの取材が入った。運ばれてきた車が道に降ろされるのをあちこちからのぞき込みつつ、イーロンはこう言った。/「YMCAでシャワーを使い、事務所の床で寝る生活からわずかに3年で、100万ドルの車を買うことができました」/感情のほとばしりが収まると、急に大金を手にしておかしくなったと見られかねないことに本人も気づいたらしい。/「こんな車を買うなんて、帝国主義にかぶれた小僧らしい行動だと思う人もいることでしょう。私は価値観が変わったのかもしれません。でも、少なくとも、変わったと私自身は感じていません」/実際のところ、彼の価値観は変わったのだろうか。大金が入ったので、欲望や衝動を制限する必要があまりなくなったのはまちがいないし、彼の欲望や衝動が見目麗しいものばかりでないのもまちがいない。だが、目的に向かって脇目もふらずに突きすすむ性格が変わっていないのも、また、まちがいのない事実である〉
ここから資本の自己増殖が始まった。マスク氏がいなくても誰かが同様の役割を果たし、時代を画する決済システム、電気自動車、宇宙開発を推進したと思う。貨幣は商品やサービスにいつでも交換することができる。しかし、商品やサービスは、いくら優れたものでも必ず売れる保証はない。マスク氏はツイッター(現在のX)を2022年10月に買収したが、今後、その運営がうまくいかずに大損失を被るかもしれない。資本家は常に「命がけの飛躍」に成功しなければ、生き残れないとマルクスは指摘した。この評伝から伝えられるマスク氏の姿を見るとマルクスの指摘が正しいように思えてくる。
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source : 文藝春秋 2023年11月号