「楽劇王」の異名を持つリヒャルト・ワーグナー。究極なまでの音楽と劇の融合を目指した彼に熱狂するワグネリアンは多く、メルケル前首相もそのひとりだ。「バイロイト音楽祭」ではワーグナーのオペラのみ上演されるが、年によって演出や解釈が変わるため、ファンはこぞって現地へ通う。4年ぶりに訪れた小佐野彈さんが、この夏の熱狂を振り返る。
ワーグナーは生涯で多くのオペラや楽劇作品を残した。
しかし、バイロイト音楽祭で上演されるのは『さまよえるオランダ人』以降の7作品のみである(『ニーベルングの指環』4部作は1作として数える)。初期の作品である『婚礼』や『リエンツィ』などはワーグナー自身が「習作」と見なしていたこともあって、ワーグナーの理想を体現した「完璧な祝祭」であるバイロイトでは上演されない。
ワーグナーの代表作にしてライフワークであり、西洋音楽史におけるメルクマールである『ニーベルングの指環』(以下、リング)は、序夜「ラインの黄金」から始まり、第1夜「ヴァルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、そして最終夜「神々の黄昏」という4演目で構成される。
北欧神話やドイツ神話から着想を得た総演奏時間16時間を超える『リング』は、そのストーリーの複雑さもさることながら、舞台装置やキャスティングに膨大なコストがかかるため、世界中の大半の歌劇場においては4演目がそれぞれ独立した作品として上演されるか、4演目を4年かけて上演されることが多い。
ワーグナーのメモリアルイヤーにウィーン国立歌劇場などで4夜通して上演されることがあるが、稀である。この『リング』4部作を毎年確実に通しで観ることができる機会は、基本的にはバイロイト音楽祭をおいてほかにない。
バイロイト音楽祭では新演出の『リング』を4年間上演し、その後1年か2年の「リングの無い年」を経て、新たな演出の『リング』が上演されるというルーティーンになっている。「リングの無い年」は、『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、そして『パルジファル』の6作のうち5作が上演される場合が多い。そのうち必ず1作は新しい演出となる。
「リングのある年」は『リング』4夜に加えて他に3作品が上演されるが、今年2023年はコロナで中止となった2020年の分も含めて『リング』4夜に加えて4作品という大変豪華な年となった。『ローエングリン』と『ニュルンベルク』以外の全てが上演されたことになる。
バイロイト音楽祭の真骨頂が『リング』にあることは間違いないが、僕の個人的な感触では、バイロイトで最も特別な作品はワーグナー最後の楽劇作品にして、ワーグナー自身が「舞台神聖祝典劇」という仰々しい枕詞まで付した『パルジファル』であるように思う。
聖金曜日に白鳥を矢で殺してしまった無垢で無知な青年が、やがて知徳を得て聖杯の儀式を司る王・アンフォルタスを救済(と言えるかどうか議論はある)するという、キリスト教的モチーフが色濃いこの超大作のあらすじや詳細についてはWikipediaやその他ガイドをご参照願いたいが、この作品は恩人であるピアニスト・リストの娘にして、友人の妻を不倫の果てに略奪するなど悪徳の限りを尽くしたワーグナーが、人生の晩年に至ってある意味懺悔にも似た祈りを込めて作り上げたものであると思う。
それゆえ、病的な完璧主義者にして最強にワガママな芸術家であるワーグナーは、この『パルジファル』の上演に関して、かなり細かい条件をつけた。
観客の拍手と上演を禁じた⁉
まず、全幕において観客に拍手を禁じたと言われる。なぜならこの楽劇は他のワーグナーの楽劇と違って神聖な「祝典劇」だからだ。かつて「拍手を禁じてはいない」という声明が出されたこともあったが、僕はワーグナーは禁じたのだとマジで信じている。
そして最強に厳しい条件が、「『パルジファル』は『バイロイト祝祭劇場』以外で上演してはならない」というものである。
『パルジファル』はワーグナーの全作品の中で唯一、バイロイト祝祭劇場の竣工後に完成した作品だ。ワーグナーは、自身が設計し、理想の音響と観劇環境を体現したバイロイト祝祭劇場で上演されることを「前提」としてこの作品を作曲した。
指揮者にもよるが、25分に及ぶ前奏曲から第3幕のクライマックスに至るまで超大規模のオーケストラが重層的かつ重厚な音楽を鳴らし続ける本作は、楽器の音が複雑に混ざり合い、四方八方から音が聞こえる構造のバイロイト祝祭劇場でなければワーグナーが満足する形での上演は不可能なのだ。
拍手の禁止と劇場の指定という2つの条件のうち、後者はワーグナーの死後、遺族によって30年にわたり守られたが、今日では世界各国のさまざまな歌劇場で『パルジファル』が上演されている。
前者も多くの歌劇場では形骸化してしまっているが、バイロイト音楽祭ではいまでも、自らの作品の世界観を崩されたくないワーグナーに敬意を表して、第1幕の後はカーテンコールを行わない。初めてバイロイトで『パルジファル』を観る観客は第1幕が終わったあとつい拍手をしてしまうのだが、周囲のベテランの観客や熱烈なワグネリアンから「シーッ!」という声がかかって拍手を止められたりする。
僕が初めてバイロイトで『パルジファル』を観劇したのは確か2009年だが、噂で聞いていた通り第1幕の終幕後にカーテンコールがなく、まばらな拍手すらだれかの「シーッ!」という発声でピタッと止まった光景にぞくぞくしたのが忘れられない。
そして今年2023年のバイロイト音楽祭は、この最も特別な作品である『パルジファル』の新演出が上演される「特別な年」だった。
オペラというと、豪華な衣装や古典的な世界を想像する方も多いかもしれないが、大胆な読み替えやアバンギャルドなオペラ演出が盛んなドイツ語圏の中でもとりわけバイロイト音楽祭は、とても現代的でめちゃめちゃ「攻め」た演出で知られる。かくいう今年が初演版となる『パルジファル』もそうだった。
まず、演出においては一部の希望した観客に対して、事前にサイズ調節までしたARゴーグルが配られ、舞台上の美術やビデオと、ゴーグルに映るARヴィジュアルとがシンクロするという技術的にもかなり新しい手段が用いられた。
僕はARゴーグルなしの席を取っていたので、ARゴーグルの中でどのような世界が展開していたのか知るよしもない。ただ、パンフレットやネット情報によれば、ゲームのドラゴンクエストやファイナルファンタジーにも似た、宇宙規模のヴィジュアルが用いられていたようである。
ARゴーグルなしの席で見た僕の率直な感想としては、正直「前の『パルジファル』のほうがよかったな……」といったところだ。舞台上にさまざまな象徴物を登場させ、特に2幕目のクリングゾルの館の場面はビデオ・アートも衣装も美しかったが、全体として物語の骨格と演出意図がうまく噛み合っていないように感じた。しかしARという最新技術を使った挑戦的な試み自体はバイロイトらしくて良いと思う。
舞台上の建物が本当に燃やされる
今年見た演目の中で強い印象を残したのは『リング』と『タンホイザー』だった。
『リング』においては本来モノであるはずの「ラインの黄金」(そしてそれで鍛えられた世界を支配する力を持つ指環)がひとりのアジア系少年として擬人化されていた。この少年は最終夜「神々の黄昏」において主要登場人物の一人で英雄・ジークフリートを騙し殺すハーゲンへと長じてゆくのだが、これ以上はネタバレになるので控える。
前回の演出は資本主義の成立と発達から崩壊に至るまでをアイロニカルに描き、最終夜「神々の黄昏」の3幕目では、舞台上のニューヨーク証券取引所の建物が炎に包まれ燃え落ちる(本当に燃やされた)という演出で、毀誉褒貶があった。
いや、バイロイトの演出において万人が「ブラボー」というような作品はないのだが。今年の『リング』は子供の人身売買や小児性愛、過剰な消費やブランド志向、銃社会など現代的な問題意識がかなりふんだんにちりばめられたものだった。観客の反応は4夜を通じて概ね良かったが、かといって「ブラボーの嵐!」という感じではなかった。
『タンホイザー』は、たしか2019年の初演の際に、日本のNHK BSでも放映されたものである。
タンホイザー役は現代最高峰のワーグナー唄いのテノールであるクラウス・フローリアン・フォークトが務めたが、前奏曲で映されるビデオや、劇中でもライブビデオが効果的に用いられ、観客を見事に虚実のあわいの不思議な世界に誘うことに成功していた。
ヴェーヌスの支配するヴェーヌスベルクは古いシトロエンのバンで、そのバンでワーグナーによく似た小人症の青年や黒人ドラァグクイーン「ガトーショコラ」と一緒にガソリンを盗んだり、偽造クレジットカードでバーガーキングの商品をせしめたり、警備員を轢き殺して逃走するビデオシーンなどは、劇画的な魅力に満ちていた。
そんな現代的な演出が、ワーグナーが19世紀なかばに作曲した音楽やリブレット(台本)と見事に噛み合って、歌詞なども改変されていないにもかかわらず、舞台上の「現代」と完璧に調和するところが現代演出のオペラの醍醐味だ。
この『タンホイザー』2幕目では、舞台真ん中で古典的な『タンホイザー』が上演されているが、舞台上方に映し出されるビデオはライブビデオになっていて、舞台裏や劇場の外のリアルタイム映像が流れ続ける。
そして、まさに観客たちがいるバイロイト祝祭劇場にヴェーヌス一行が忍び込み、タンホイザーを奪還しようと試みる様子や警備員や警察車両が追いかける様子、そして外の正面バルコニーにハシゴをかけて劇場に侵入するシーンが「生放送」されるのだが、観客は2幕目を終えて外に出ると驚く。本当にバルコニーにハシゴがかけられ、ヴェーヌス一行が掲げた、ワーグナーがドレスデン蜂起の際に残した「自由」を希求する言葉が記された旗がはためいているのだ。細部まで凝り尽くされた演出は圧巻だった。
幕間の食事と、開演を告げるカルテット
なにがともあれ演目それ自体の評価や内容については専門家に委ねるべきだろう。僕はワーグナーの専門家でもなく一介の作家なので、バイロイトならではの「幕間の時間のたのしみ」についても書いておきたいと思う。
通常のオペラ公演では1幕ごとに挟まれる休憩時間、すなわちインターバルは長くて30分という場合が多い。しかし、バイロイト音楽祭ではワーグナー作品が長大でオーケストラや歌手陣にも十分な休憩時間が必要なのと、観客にも固まってしまった腰や背中をゆうゆうと伸ばしてもらうために、幕間の休憩時間は1時間設けられている。
この1時間の過ごし方は人それぞれなのだが、ほとんどの作品が16時に開演し、インターバルを挟んで終演が21時や22時を過ぎるので、僕や母をはじめ、多くの観客がこのインターバルの時間に食事を取る。
会場にはいくつかレストランやカフェが用意されていて、ブッフェスタイルのカジュアルなものから、事前にテーブルを予約しておく必要のあるややフォーマルな場所まである。母も僕も幕間にしっかり食べておきたいので、毎年テーブルを予約するようにしている。
ワーグナーの作品は基本的に3幕構成なので、1幕目のあとのインターバルで前菜を食べ、2幕目のインターバルでメインディッシュとデザートを食べる、というのが基本パターンだ。
食事を終え、観客たちがめいめいにシャンパングラスを傾ける劇場前の外の広場へ向かうと、多くの人々が正面バルコニーの前に集っている。これには理由がある。他の歌劇場ではベルやアナウンスなどで「まもなく開演です」と伝えることが多いが、バイロイト音楽祭はここも凝りまくっている。
開演15分前、開演10分前、開演5分前にそれぞれ、正面バルコニーに管楽器のカルテットが現れ、演目の主要な動機(ライトモチーフ)を演奏するのだ。たとえば『リング』第1夜の3幕目「ヴァルキューレ」なら、あの有名な「ヴァルキューレの騎行」が演奏される。そして『タンホイザー』1幕目の前は、誰もが知る「タンホイザー序曲」の旋律だ。
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